UnBooks:AVに学ぶ『資本論』

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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序章 「はじめに」[編集]

本文章を書き進めるにあたって、まず一点断っておきたいことがある。それは、これから書かれる文章のすべて、またそれらの理論は、一切が私の持論であるということだ。

あくまでも、ここに書くことはすべて思い付きであり、根拠など全くない。もはや詭弁であることは完全に自明である。しかしながら、私はふと「AV」と「資本論」を結び付けたいと考えてしまったのであるわけだから、仕方が無い。

そもそも「どうしてそんなことを思ったのか」、と聞かれると、正直私自身も思い当たる節はない。ただ、ふとそう思ったのである。性的欲求など、所詮はそんなものである。そんなこんなで、私はこれから「圧倒的空想」かつ「圧倒的詭弁」である資本論を書き連ねていく。

一つ約束してほしい。絶対に「正論」だけは言わないでくれ。そんなことをされたら確実に崩れてしまうほどの「しょうもない」理論なのだ。

それではまず、「AV」と「資本論」それぞれについて、少し触れていこう。

第一章 「AVとは何か」[編集]

このタイトル「AVに学ぶ『資本論』」に興味を持った時点で、大半の人は「AV」とは何かについてよくわかっているだろう。勿論「アニマル・ビデオ」では決してない。AVとはつまり「アダルト・ビデオ」のことである。しかしながら、ここで私は一つの問題を提起したい。この世の中には「AV」=「エロ動画」だと解釈している人間が少なからずいる。確かに、その解釈も間違ってはいない。しかしながら、その解釈は全く核心をついていないのだ。では、その違いは何なのか。

それはつまるところ、「その作品に『テーマ』があるかどうか」である。私は、AVには「伝えたいテーマ」というものがあり、ただのエロ動画にはそれがない、という主張をしたいのだ。

では、どうして私がそのように考えるのか、もう少し詳しく説明しよう。そもそも、「AV」というのは略語である。正確には「AV作品」という言い方が正しいのではないだろうか。

なぜならば、「AV」にはいつ何時も「監督」がいて、「役者」がいて、それに出資している「スポンサー」や 「制作会社(例えばSOD等)」がある。もはや、この時点で「AV」には多くの金銭的な流れ、詰まる所、流動資本、資本論というものの一端を感じることができるのではないだろうか。ここで言う「感じる」というのは、いつもと少し違った意味での「感じる」である。

その一方で「エロ動画」はどうだろうか。そこにあるのは、単なる「エロティシズム」のみである。AVのように何か流れがあるわけではなくて、ただ単に「エロい」。確かに、する事をするだけならば、エロさえあれば十分であろう。しかしながら、あくまでも本書で私が強調したいのは「エロと資本論の融合」なのである。だからこそ、根底に流れがなく、よもや違法アップロードが横行しているような「エロ動画」では、全く意味をなさないのである。

ここまで話せば、読者の皆さんにも少しは「AV」と「エロ動画」の違い、また、本書における「AV」の重要性についてご理解いただけただろうか。少なくともここからは、「エロさ」や「面白さ」を追求する為に読み進めていただきたくはない。何度も繰り返すが、ここで話したいのはあくまでも、「AVと資本論の融合」である。

それでは次の章では「資本論」について大まかな説明をしていこう。

第二章 「資本論とは何か」[編集]

それでは、次に「資本論」とは何なのか、ということについて、簡単に説明していこう。まずは、こちらの引用文章を読んでいただきたい。

『資本論』は、カール・マルクスの著作。ドイツ古典哲学の集大成とされるヘーゲルの弁証法を批判的に継承したうえで、それまでの経済学の批判的再構成を通じて、資本主義的生産様式、剰余価値の生成過程、資本の運動諸法則を明らかにした。全3巻(全3部)から成る。副題は「経済学批判」。冒頭に、「忘れがたきわが友 勇敢、誠実、高潔なプロレタ リアート前衛戦士 ヴィルヘルム・ヴォルフに捧げる」との献辞が記されている。2013年に『共産党宣言』とともに資本論初版第1部が国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界の記憶に登録された。(Wikipedia 「資本論」引用文献)

非常に難しく、かつ専門的な知識が必要となってくる文章である。しかし、私は本書において、なるべく簡単に「資本論」を理解していただきたいと思っている。そこで、多少なりとも強引にはなるが、少なくとも私の中での「資本論」、つまりは、本書においての「資本論」の大まかな概念を提示させていただきたい。私が考える「資本論」の概念とは、以下の通りである。

本書での資本論は、このように認識していただきたい。更に噛み砕いて説明すると、「何らかの差があって、そこに流れがあるということ」である。

今後、「AV」と「資本論」を結び付けて説明する際に、少しわかりやすくするためにたとえ話を一つしておこう。ここで登場するたとえ話の題材は、みんなが知っている童話「桃太郎」である。

第三章 「『桃太郎』に資本論を見る」[編集]

おばあさんが川で洗濯をしていると、川の上の方から大きな桃が流れてきました。
おばあさんは、苦労してその大きな桃を川から拾い上げ、おじいさんが待つ家へと帰ります。
おじいさんと一緒に、この大きな桃を割ってみると、何と中から出てきたのは小さな赤ちゃんでした。そう、この子が「桃太郎」です。

さて、もうこの時点でこの物語にはある種の「資本論」的な思想が描かれている。それは、おばあさんたちが食べようとした大きな桃の中には、何と赤ちゃんが入っており、そこにある「差異」がこの後の資本論へと私たちを導いてくれるのである。

その後、桃太郎はすくすく成長し、逞しい青年となります。
するとある日、こんなことを言い出します。「私は、鬼ヶ島に行って、悪さをしている鬼を退治します!!」

そんなことを突然自分の子供が言い出したら、案外引き止めそうなものだが、おじいさんとおばあさんは「そこに何らかの『差異』があり、それらの『差異』に流動性がある、もしくはその『差異』によって生まれる流動性がある、という事象を表す理論」をあっさりと認めて、桃太郎に「きびだんご」を渡す。ここにも、資本の流動性、正確には「投資的性格」を見ることができる。つまりは、おばあさんは桃太郎に対して「きびだんご」という投資をすることで、そこに意識はなくとも「無意識的」に投資・投機的行為をしているのである。そして同時に、その行為、つまりは無意識的に投資をする、という行為は現在生きている私たちにも深くしみついている。

さて、桃太郎はきびだんごを持って旅立ちます。その道中、犬、猿、キジ、といった動物たちと出会うのです。
そして、それぞれに自分が持っていたきびだんごを受け渡すことで仲間となってもらい、そんな仲間たちとともに鬼ヶ島に行って、とうとう鬼たちと対峙するのです。

ここでもまた、この物語は「流動的資本」を象徴する行為を描いている。それはつまるところ、「おばあさんに貰ったきびだんご」を「道中で出会った者」に渡して「仲間となってもらう」という点である。

これのどこが「流動的資本」を表しているのか、察しの良い方はもうお気付きだろう。そう、つまりは、ここで言うきびだんごとは、それそのものが資本(お金)を象徴しているのである。おばあさんからもらったきびだんご(お金)を、道中であった動物たちに渡す(お金を払うことで契約関係を結ぶ)、そして仲間となってともに戦う。ここには完全なる「資本の流動性」があるのである。

桃太郎たちが鬼ヶ島につくと、案外あっさりと鬼たちを倒します。普通クライマックスはもっとド派手な感じですけど、ほんとにあっさりと倒します。
その後、桃太郎は沢山の財宝と仲間を連れて、おばあさんとおじいさんのもとへ帰り、平和に暮らしました。

はい!!出ました!!「投資的性格」。 おばあさんたちは、桃太郎を川から拾い上げ、きびだんごを渡したことで、沢山の財宝(見返りとしての資本) を手に入れることができ、これはまさに現代に言う「投資」という行為を象徴しているのではないだろうか。

このようにして、私たちみんなに馴染みのある童話にさえも、「資本論」を見出すことができるのである。ここまで語れば、読者の皆さんにも私が言いたい「資本論」をご理解いただけたのではないだろうか。

それでは、ここから一気に本題に入る。

第四章 「AV と資本論の融合」[編集]

1.作品自体に見る「資本論」[編集]

私たちは、AV作品そのものに対して「資本論」を見出ことができる。 それは、「内容」という意味でも、「制作背景」という意味でも。

そもそも、大抵のAVの内容は、結局省略して説明してしまえば、「SEXをする」これに限るものである。そしてこの行為、つまりは、AVの中におけるSEXという行為には大いなる二面性がある。

その二面性とは何か。それは、「ただ単なる性行為としてのSEX」と「それを享受するものに提供するためのSEX」というものである。そして、私は、この二面性に「AVの内容」としての「資本論」を見出したいのである。具体的にはどういうことか、ここからさらに加速させて、この詭弁を仕上げていくとしよう。

まず、このAVにおける二面性はどうして生じるのか。それを追求することで、そこに資本論がおのずと見えてくる。その答えは至極簡単なものである。その答えとは、「AV であるから」だ。これではまるで答えになってないではないか!!という意見も勿論出てくることであろう。しかしながら、この答えこそ「資本論」を見出すカギになってくるのである。

つまりこういうことだ。先ほども説明したように、AVには「行為」において二面性が存在する。そして、その二面性には「差異」を見つけられる。しかし、明らかな「差異」があるにも関わらず、その原因は全く合理的でないものなのだ。もう何となく分かってきただろうか。つまるところ私が主張したいのは、この現象は現代の資本主義社会そのものを象徴しているのではないか、ということである。

現代の資本主義において、お金(貨幣)は、まさにここで言うAVと同じものと言えないだろうか。単なる紙切れでしかない「お金」を私達は何の違和感や疑念も無く使っている。しかしながら、このお金というものの最大の重要性は、今や忘れ去られている概念、つまりは、「単なる紙切れであるお金」と「何か価値のある物の代わりとしてのお金」のお金の二面性における「差異」にこそあるのではないだろうか。そして、だからこそ私は、AVにおける「行為」の二面性と、現代の資本主義におけるお金の二面性に、非常に似たものを感じ、そこに資本論を見出さずにはいられなかったのである。

最終的に、私が「作品自体」にみる資本論とは、AVでの行為の二面性における「差異」と、現代の資本主義でのお金の二面性における「差異」、これらの酷似からくるものである。

2.作品の多様性にみる「資本論」[編集]

さて、ここで皆さんに一つ質問をしたい。

皆さんは普段、どのような「AV」を見るだろうか。例えば、JKものや、人妻系、なかには時間停止ものなどといった変わり種まで。きっと、現在のように、これだけ沢山の「ジャンル」があれば、毎日の「おかず探し」にも困らないことであろう。

しかしながら、この膨大な「ジャンル」というのが、私たちに何かを伝えようとしているのではないか、と考えたことはないだろうか? いつも、私たちの「お世話」をしてくれている様々な作品たちは、それぞれ一つ一つの作品としてだけではなく、大きな媒体、つまりは「AVジャンル」という側面で、私たちに対して、資本主義の脆弱性を示してくれて いるのである。以下に詳しく説明していこう。

ではまず、AVジャンルの多様性について触れるとしよう。今現在、世の中にあるものは数知れず、また、2000年代に入ってから急激にインターネットが普及した影響で、日本のものだけでなく、海外のものや、違法にアップロードされているものまで、私たち享受者は、まさにあふれんばかりのジャンルの中から、溺れそうになりながら目的のものを探す、という構造が出来上がった。

しかしながら、このことはいいことばかりだろうか? いや、確実にそうではない。確かに、私たち男にとっては、ジャンルが増えて母体が増えたことはうれしいことに違いないであろう。しかしながら、逆に考えて、長い目で見たときに、と考えた時にどうであろうか。どんな状況下においても、うれしいことであるかと問われれば、首を傾げてしまうのではなかろうか。

例えば、私たちにとって身近な話となると、こんな事例がある。

事をしようとして、目的のAVを探す。しかしながら、目的のものにたどり着くまでに様々な雑念(つまりは別ジャンルのAV)が私たちの視覚に訴えかけ、結局は全く興味の無いようなもので事を終えてしまう、そんなことを経験したことがある人は多くいるのではないだろうか。

このような大惨事はどうして起こってしまうのか。それはなぜならば、そこにあふれんばかりの「AV」がはびこっているからである。そしてこの事象は、まさに現在の資本主義における脆弱性を象徴している。

ここで言う「資本主義の脆弱性」というのはつまり、物価の上昇、もっと言えば、第一次世界大戦後のドイツのような「超インフレーション」と言われるような事象を指している。どんどんとめどなく物価が上昇し、世の中にはお金が溢れかえり、ついには失業者が増加して、最終的に子供が札束を積み木にして遊びはじめる。こうなれば、経済をもとの状態に戻すのはそう容易ではないし、なお且つ資本主義の下ではそれは不可能に近いであろう。

そして、この事は先ほど話した「AVの多様性」を少し応用したように思えてこないだろうか。そう、つまり、AVのジャンルがどんどん増えることは、物価の上昇を表していて、それによって本当に自分が 求めているものにたどり着けなくなってしまうということは、超インフレーションによって取り返しのつかない状態になる資本主義社会を象徴しているのである。

つまり、私がここで強く主張したいのは、AVジャンルのとめどない増加は、資本主義社会の崩壊へと向かう私たちに対して、警鐘を鳴らしている、ということである。

3.AV による性活にみる「資本論」[編集]

最後に、私たちの「性活」というものそのものに対して資本論を見てみよう。

私たちが生きる中で、最も代表的な消費行動とはなんだろうか。それは、「自慰行為」である。間違いない。私達は、日々の中で、働き、お金を稼ぎ、物を買い、また働き、と、消費行動のサイクルに生きている。そして、「自慰行為」も立派な消費行動と言えるのではないだろうか。つまり、精子は私たちの体内で生産され、それを私たちはAVなりなんなりを使って「消費」する。そう、ここにも資本の消費という点で、立派な資本論を見ることができるのである。

もう少し、この点について詳しくお話ししよう。そもそも、私たちの性活における消費活動の意味とは何なのだろうか。いや、そこにまず意味はあるのだろうか。私の見解では答えは「NO」である。そう、つまり私はこう考えるのである。少し哲学的な話になるが、そもそも資本主義社会における大半の消費行動には全く意味が無い。確かに、食事などに関しては、それをしなくては人間生きていけないのだから、必 要な消費と言えるであろう。

しかしながら、例えば、ブランドバッグを買いあさったり、意味もなく必要のないカロリーを摂取したり、などの消費は、私たちの生活に必要であろうか。いや、きっとなくなっても私たちの生活そのものには何の害もないであろう。もしこれで被害を受けることがあるとするならば、それは、私たちの「プライド」であるとか「幸福度」などといった、基準が全く分からないようなものばかりだろう。

さて、ここまで話して話題を「性活」に移せばなかなか分かり易いのではないかと思う。そもそも「自慰行為」というのは、全くもって理にかなっていない、意味不明かつ理解不能な行為である。どういう事か、もうお分かりだろう。

一度の自慰行為で体外に排出される精子の数は約10万としよう。その時点で、私たちは10万もの生命の可能性を殺していることになる。もはや、これは殺人と同等の行為である。しかしながら、我々男たちは学ばない。一度やって、ふと虚無感に襲われるというのに、数日たてば何も考えずにやっている。そういう生き物なのであるから仕方ないといえばそこまでなのだが。

こういった行為は、まさに先ほどご紹介した「何度も意味のないブランドバッグを買う」などという行為とほとんど同じ、いや、もはやそれよりも酷いのではないだろうか。そして、だからこそ私は、ここにAVの必要性を提唱したい。

どういうことか。つまり、私たちは、AVを購入してそれを見ることで、少なくとも一部の資本の流動にかかわることができる。そのため、ここまでひたすらに批判してきた「自慰行為」でさえも、ほんの少しでも「意味のある行為」に変えることができるのである。

つまり、ここで私が言いたいことをまとめると、男性諸君の「殺人行為」と同等の「自慰行為」は、AVによって「意味のある消費活動」に変化させることができるということだ。

第五章 「おわりに~私たちはどう生きるか~」[編集]

とうとうこの詭弁も、収束しようとしている。ここまでお付き合いいただいた方には、まさに感謝というほかない。こんな何の根拠もないアホ理論に付き合ってくれて、本当にありがとう。

しかしながら、私はここでこの詭弁を急に終わらせるわけにはいかないのだ。映画にはエンドロールがあるように、この詭弁にも「結論」が必要だ。

私は、この最後の第五章では、「今後、私たちがどう生きるか」ということについて、AVを通して主張したいと思う。もう少しの辛抱だ。この詭弁に最後までお付き合い願いたい。 さて、一つ皆さんに質問を投げかけたい。

「あなたたちは、今をどう生きているか」

この質問に、あなたはどう答えるか。

適当に?真剣に?ただ生きている?よく生きている? この質問には、「正しい答え」というのは存在しない。それぞれの生き方、考え方、価値観といったものに完全に左右されるからだ。しかしながら、もしも今、自分の人生に迷っているだとか、疑問を持っている人がいるならば、少し私の主張を聞いてほしい。

例えば、かの有名な哲学者アリストテレスはこう言った。「ただ生きるより、よく生きる」 しかしながら、これはあくまでも「この時代の価値観」により生み出されたものだ。だからこそ、私は、こんな昔のわけのわからない老人が言ったような言葉に、現代を生きる私たちが左右されなくてもよいのではないか、と言いたいのである。

そもそも、現在ではインターネットが普及し、私達は膨大な情報量の中で、自分自身の立場や、価値観といったものを見失いながらも何とか生きているという人がほとんどであろう。そう、「暇こそが正義」なんてのんきなことを言っていた時代とはわけが違うのである。

だからこそ、私達現代人には、私たちなりの価値観が必要なのである。それを、ここで主張したい。それは、

「よく生きるより、ただ生きる」

この価値観を、どうか頭のどこか片隅に入れておいてほしい。そして、何かつらいことがあった時には思い出してほしい。正直、相当な批判もあることだろう。しかしながら私は言いたい。生きているだけがそんなにもいけないことなのだろうか。毎日誰かのためになって、いいことをして、それが そんなに偉いのか。そんなものは、大昔の人間の価値観に寄り添っているだけで、私たちの生活や心には全く寄り添おうとしない。

しかし、そんな中でも私たちに寄り添うのが「AV」なのである。

AVは私たちの生活に、ほんの少しの「非現実」を与え、また、先ほども言ったように無意味な行動に意味を持たせてくれる。本当に素晴らしい。

もはや、ここまでくると「それ資本論じゃなくね?」という意見が来そうだが、それは違う。そもそも、こんな理論最初から資本論なんかじゃない。完全なる詭弁である。しかしながら、最後の最後に私は主張したい。

この世の根源は「エロティシズム」であり、そこには万物の根源を見出すことができる。つまりは、当然のことながら、そこに資本論も含まれるのである。