神の存在証明

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神の存在証明(かみのそんざいしょうめい)とは、『など存在しない』などと罰当たりな言葉を吐く無教養な者達のために、親切な有識者達がわざわざ体系化した論理である。

古代から中世にかけて様々な有識者達が思索した証明の集大成として『目的論的証明』『本体論的証明』『宇宙論的証明』の三つが広く知られていたが、この三つは誤りであるとしたイマニュエル・カントが『道徳論的証明』を提示し、これを合わせた四つが現在でも全世界的に広く知られている。


      ゆ え に 神 は 存 在 す る !!! 

四種類の存在証明[編集]

上に述べた四つの存在証明が主に知られる。他にも多数の思想家による様々な証明の試みが存在するが、所詮この四つの劣化版なので気にしなくて良い。

  • 目的論的証明
  • 存在論的証明
  • 宇宙論的証明
  • 道徳論的証明

目的論的証明[編集]

世界を構成するあらゆる事象は、完成された秩序をもって動いている。例えば1=2の美しさは誰もが認めるところであるし、君は牛を二頭持っていてあああああああああ!あああああああ。

このように、ありとあらゆる全ての何かは必ず目的を持ち、最終的に収束してウロボロスを構成する、という精妙な世界の仕組みから逆説的に考えれば、神の存在は自明である。それは神の降臨という目的があれば神は降臨するということであり、実際に人間が尻を清潔に保とうという目的を持って行動する際、そこにはロール神が降臨する。

すなわち、神は存在する。当然の事である。

存在論的証明[編集]

カントにより道徳論的証明が提示されるまで、中世哲学で最もポピュラーだった証明議論。ものの『存在』そのもの、例えば『』『幼馴染』『ロリ』『巨乳』等の概念そのものを『属性』として認識し、これらの『存在』そのものを最大に備える存在者が存在するとした。

その存在とは、ある人には『スクール水着猫耳ロリ』またある人には『ポニーテールな巨乳メイド』として認識されるという、それぞれの人が理想とする最大属性を持った『存在』、すなわち『全ての人にとっての理想の体現』となる究極の存在である。

見る人によって全てが無限に異なるこの存在こそ、『全ての属性を究極的に極めた』と述べるに相応しい絶対存在であり、同時にありとあらゆる人間の平等降臨し、人々に希望を与え、また試練を与える存在である。

この行為は正に神の施しそのものであり、この存在は神である。故に神は存在する。

アルセンムスが、この形の証明を試みた事で有名である。彼は、触ることを許さない筈である究極存在たる神に直接触れ合い、手を繋いで散歩までしていたとされている。が、文献を探る限りでは、彼が手を虚空に出したまま楽しそうに散歩していた、という記述しか見つかっておらず、この伝承には現在でも否定的な意見が多い。

宇宙論的証明[編集]

宇宙は極めて広大であり、地球などというちっぽけで矮小な惑星一つすら満足に解明できない人類如きには、その全てを観測することなどとても不可能である。人類史上の新発見も毎日当たり前のように起こっていることであり、それはこれからも当然のように起こり続けるであろう。宇宙は人間にとっては未知の塊であり、同時に現在の人間如きには証明できない数多の問題の答えが眠っている。

つまり逆説的に考えれば、人間の証明できない『神』の存在は、宇宙を解き明かしていればいつか必ず証明されるのである。

いつか証明されることがはっきりしているとは、つまり既に証明されている事と同義である。すなわち、神の存在は証明されたのである。

道徳論的証明[編集]

カントは、ここまで述べた3つのような“論理的な語法”によっては、神の存在証明はいかなる形でも行えない(つまり、上の3つは、「論理による証明が可能である」とする前提がそもそも誤っている)と考えた。しかし一方で、人間が道徳的実践を行う上では、その実践の必然的な対象たる“最高善の実現”のために、神の実在が要請される(予め神の存在が実現されていなければならない)とした。

わかりやすく言うと、カントは「証明なんてしなくていい、っていうか論理による証明をしようとすること自体間違っている。人間が善く生きるために神が必要なのは当たり前じゃないか」と考えたのである。


カントは、すべての人間について、その人間が道徳法則に従うことを“”としている。ここでいう「道徳法則」とは、全ての人間が従うべき、善なる意思によって導かれた法則――例えば、人を殺してはならないとか、アンサイクロペディアに嘘を書いてはならない、など――のことをいう。

しかし、そのような道徳法則は、人間が定めることはできない。人間は不完全な存在であり、善なる意思によらない行動――自分に害なす人物であるから殺す、アンサイクロペディアの読者を笑わせるために嘘を書く、など――をとってしまう余地が常に介在している。

このように不完全な人間が、完全に善なる意思によってのみ行動するようになるためには、無限の時間が必要である。また、何が“善”であるかを定めることもまた、人間が定めたのではその定める行為そのものに“不善”が介在しうるために、人間ではない存在によって定められざるを得ない。

人間ではなく、しかし、「何が“善”であるか」を定めることができる存在――、それは、「神」以外に有り得ない。

カントはこのように考え、神は実在しなくてはならないと結論付けたのである。

自分の論を唱えることはともかく、自分の論と対立するわけでもないのに既存の論を全て一律に否定する、という行為は、どう考えても、自分の論を正当化するための“不善”な行為であるに違いないのだが、カントはそこには気付かなかったようだ。

関連項目[編集]

Wikipedia
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