白村江の戦い

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白村江の戦い(はくすきのえのたたかい・はくそんこうのたたかい)とは、古代から現代に至る日本朝鮮の関係を決定づけた戦争である。

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概要[編集]

白村江の戦いとは、663年8月に朝鮮半島の白村江で行われた旧百済残党・倭国連合軍対・新羅連合軍との陸海戦のことである。結果をいえば唐・新羅連合軍が勝利し、倭国は大敗によって大ダメージを受けることとなった。

戦力的には倭国・百済残党連合軍は白村江の戦いに勝てるだけの力があったが、戦法が最悪でありずるずると負けた。この戦いは戦術の差において負けたといっても過言ではなく、後に国力を増大させようとした際にもこの戦術はないとやり玉にあがるものであった。

戦後[編集]

倭国
これでは不味いと考えた当時の天智天皇は報復を恐れて防人の配備などを行った。実際その読みは当たっていたようで新羅は同じく朝鮮半島に建国された高句麗をも戦争で滅ぼしている。もし新羅・唐対策をしていなかったら倭国は日本になれなかったかもしれない。その後天智天皇が急逝した後も、天武天皇持統天皇による専制的統治路線によって日本の枠組みが完成した。そうした対唐政策を行った持統天皇も唐にいる捕虜を見殺しにしたわけではなく、唐に残った国民を憂いていることは日本書紀などからうかがえる。こうした非情な判断も唐に敵う国家となるためであり、日本の基礎を作り上げてからは自信を持って遣唐使を遣わせている。
百済
この戦争によって滅びた百済の残党は倭国や高句麗へと逃避行を行うこととなった。倭国は難民となった友好国である百済の残党を受け入れた。亡命した百済の民はいつしか日本の一部となり、現在日本人を名乗る人の先祖の一ルーツとなった。捕虜となったりして旧百済領に残った倭国民とともに亡命せずに旧百済の領土で抵抗を続けた百済の民は最後まで唐に抵抗したとされ、反抗運動を起こしている。

後年の評価[編集]

この戦いによって朝鮮半島の中では親日国であった百済が完全に滅び、反日勢力である新羅が朝鮮半島を制圧することとなる。その新羅が後の高麗・朝鮮国へとつながるルーツとなり、紆余曲折あって現在の韓国・北朝鮮の礎となっていった。つまり倭国が白村江の戦いに勝利していれば百済は復興し、日本と朝鮮の関係は現在へと続く歴史よりもより友好的なものへとなっていただろう。もしそうであったなら豊臣秀吉太平洋戦争時の軍部が友好国を併合しようとするとは考えられず、日本の歴史は大きく変わっていたに違いない。

また、朝鮮・韓国内でも反日論ばかりではなく親日論を唱えているものがいる。それは百済の血を引いている家系のものではないかと歴史専門家は考えている。例えどれだけ日本が朝鮮半島に戦争して迷惑かけようが、またどれだけ朝鮮半島に日本製品や日本文化が流入しようが、百済系と新羅系の人間では日本への考え方が根本的に違い、百済系は日本を受け入れ・新羅系は拒絶するのである。こうして考えればやはり韓国が親日か反日かを決定づけたのはやはり白村江の戦いであると考えられるのである。

関連項目[編集]