悟り

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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悟りとは、真理を体得することである。

ごーん...

概要[編集]

悟りとは簡単に言えば「真理を体得すること」である。そこで、何が真理かということが重要となり、正しい物を真理と認めることで、正しい悟りを開けるのである。

真理とされるもの[編集]

存在
物質は、概念は、世界は、究極的に突き詰めると「存在している」ことのみが真実である。「私は存在と一体となった」と宣言すれば、何やら悟ったようで格好いい。
キリスト教で最重要視され、スピリチュアリティでも「愛こそが真理である」とする人が多い。なお、アンサイクロペディアで愛について検索すると、この世に愛は存在しないことが分かり、愛の不在こそが真理かもしれない。
寛容、受け入れ
何事も寛容に受け入れることが真理かもしれない。なお、寛容な人は「不寛容であることに対して不寛容」という「寛容のパラドックス」に例外なく陥り、ツイッター上では毎晩のように「不寛容 vs 不寛容に対する不寛容」の論争が起こっている(「~はいけない」と主張した人に対し、「その発言はいけない」と主張する)
自由
「自由」こそが真理かもしれない。我々も自由アンサイクロペディアを目指すのだ。
仏教における究極の悟りの概念である。「解ってないのに解った気になって気取る単語No.1」に2500年連続で1位に輝いている。
ニヒリズム
虚無主義である。何もないのである。ああ無情。
ソフィア
真実はウィキペディアには無い。アンサイクロペディアにある。

各界における悟り[編集]

哲学
ソクラテスは「無知の知」を説いた。「鞭打ち」「ムチムチ」ととても似ている。
プラトンは「イデアこそが実在」と説いた。アンサイクロペディアのイデアはソフィアであり、我々はその似像を21,249本の記事として見ている。
デカルトは「我思う故に我あり」を見出した。下手したら「そうだよね」で終わってしまうが、コロンブスの卵なのかもしれない。
ニーチェは「万物は本質的に価値が無い」と見出したが、晩年に発狂してしまった。これは悟りを見誤った者の末路なのか、発狂こそが悟りの行き着く先なのか、誰にも分からない。
仏教
仏教ほど悟りを追求した宗教はない。悟りの三宝印として「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」がある。よく解らないなら、とりあえず虚ろな目をして「色即是空、空即是色」と呟けば「この人すごい」と思われる。
ヒンドゥー教
歴史的にはヒンドゥー教に先行するヴェーダの宗教(バラモン教)まで遡ることができる。ヴェーダの宗教において、宇宙の根源はブラフマン、真実の我(真我)はアートマンと呼ばれ、アートマンとブラフマンが一体であること(梵我一如)を持って悟りとする。つまり「俺は宇宙でありである」という究極のジャイアニズムである。
道教
老子は道と一体となって生きる「無為自然」を書き残したが、そこで度々言及される「道」はとても曖昧で、具体的に何なのか示されておらず、実は何も悟ってなかった説が否定できない[要出典]
荘子はその悟りの思想を「遊」とした。自然に遊ぶのである。遊んでばかりの子供は悟ってるかもしれない。
キリスト教
キリスト教では「神の愛(アガペー)は無限、無償、不朽の愛である」としており、人間がこのアガペーに近付くことを悟りとする向きもある。なお、「アガペー」という響きは何とも間抜けであり、お笑い芸人が「アガペー」と発しながら珍妙なポーズを取りそうである。
スピリチュアリティ
瞑想などで悟りを開いた者は「無上の幸福」を体感する。「万物は一体である」という「ワンネス」も体感する。また、「善悪は無い」という境地に達する。簡単に言えば「何でもあり」であり、「何でもあり」を標榜している5ちゃんねらーは悟っているかもしれない。
心理学
アドラーは、エゴを捨て、共同体と一体となって生きる「共同体感覚」を記した。これだけだと「皆と一緒に共同体として生きる、いい教えだよねー、さすが心理学者」で終わるが、アドラーの言う共同体感覚とは「街、国、地球、を超えて宇宙」まで展開しており、頭のおかしい人と思われかねない。
マズローは欲求段階説を5段階で現し、さも悟ったように悦に入っていたが、晩年、その上にさらに「自己超越者」の段階がある事に気付いて、大慌てで自身の説を修正した。「悟ったと思ったら、さらに上の悟りがあった」というのは悟りを追求する人あるあるであり、悟りの修行はその連続である。

悟り合戦[編集]

宗教スピリチュアリティにおいて悟りを修行中の者たちにおいては、「悟り」に対する拘りが非常に強いため、「どちらがより悟っているか」という悟り合戦が例外なく発生する。しかし悟っている者ならば物事の高低に対する執着も取れているはずなので、彼ら彼女らは悟りの高低を競う分だけ、悟っていないのである。

悟っている人たち[編集]

お釈迦様
悟りと言えばこの人である。伝説によれば悟りを開いた時に、幸福感に没頭し、「教えを広めるのは面倒くさい」と思った程である。
大川隆法
大川隆法の悟りは「宇宙一であり、お釈迦様以上」である(本人談)
麻原彰晃
麻原彰晃は「真理勝者」という言葉を使った。そして勝者の成れの果てが刑務所で死刑である。
ひろゆき
論破王のひろゆきは、ある意味悟っている。
5ちゃんねらー
上述したように「何でもあり」の5ちゃんねらーは悟っている。
バカボンのパパ
何事も「これでいいのだ」とするバカボンのパパは悟っている。
子供
自我(エゴ)、執着がない子供は仏教的に悟っている。子供を叱った大人が、子供から鋭い指摘を言い返されて言葉に詰まり「うるさい!」としか言えなくなることがあるのはその証左である。

関連項目[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「悟り」の項目を執筆しています。