徳川慶喜

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「お前、逃げるのか?お前えらいんだろ。だからこんなことになったんだゾ!なのに逃げるのか!全部お前のせいでこうなったんだゾ! 逃げるなんて許さないゾ!!」
徳川慶喜 について、野原しんのすけ
「慶喜、今日という今日は本当に勘弁ならん!!!わしの足の匂いでもかいで反省しろ!!!」
徳川慶喜 について、磯野波平

徳川 慶喜(とくがわよしのぶ、1837年9月29日~1913年11月22日)は、徳川王朝のラストエンペラーで、第15代将軍である。通称夜逃げ将軍ヨッシー

概説[編集]

幼い頃から忍者ハットリくんなどにNINNJUTSUを教え込まれたため将軍でありながらプロの忍者になっていた。また超能力の使い手であったがいくらスプーンを曲げても幕府軍が勝てなかった為、ついにスプーンを投げてしまったと言う。あ~あ。

オヤジの徳川斉昭譲りの絶倫男であり、京都に向かう際には、正室が京女だったのがよほど懲りていたのか「京女あいてに夜伽なぞできぬ!何が何でも江戸の娘を連れて行く!」と無理を言って周囲を困らせ(んなことやってないで仕事しろよ)、結局江戸下町の火消しのボスが自分の娘(未婚未成年)を妾に差し出したという。ダダをこねてロリな若い妾をもらうとは、なんともうらやましいひどい話である。もっとも絶倫ぶりを発揮して、約20人という大勢の子供を儲けた時期は、江戸城を無血開城して政界から隠居した後である。慶喜が将軍後見職に就任して中央政界の表舞台にデビューした時から、江戸城を無血開城して政界から隠居するまでの6年間は、慶喜の人生の黄金期にあたるが、一切子供を儲けておらず、将軍になった後でも京都に居続けたこともあって、女の園である江戸城大奥には入らなかった。結局、慶喜が大奥に入ったのは1度だけ、それも将軍を辞職して、江戸城を無血開城する直前に、大奥に住んでいた和宮明治天皇の叔母)と天璋院篤姫(実家が薩摩藩主島津家)に、取り成しをお願いすべく土下座しに行った時だけであった。

さて慶喜が生まれた水戸藩は、徳川御三家の癖に、親父の藩主斉昭から末端の藩士に至るまで、尊王攘夷思想に傾倒したキチガイ揃いの藩であった。過激な攘夷論者達に囲まれて育った慶喜は、本心では攘夷に辟易して、後にはフランスかぶれになる程であったが、巧みに本心を隠していたことが功を奏し、父・斉昭は慶喜を大いに可愛がって、「七郎麿(慶喜の幼名)は賢い!頭が良い!超優秀!!」と幕府内で執拗に宣伝して回った。別に少年時代の慶喜の知能は、確かにバカではないが、とりたてて優秀というわけでもなく、具体的に優秀であることを伺わせる具体的なエピソードがあるわけでもない。ただ「ウソも百回いえば真実になる」という格言通り、慶喜は賢いということが幕府内の共通認識となり、御三卿一橋家当主として迎えられた。一橋家はかつて将軍を輩出したことがある家であることから、斉昭はますます慶喜に期待を寄せ、水戸藩全藩をあげて慶喜を次期将軍にすることを工作した。本来なら将軍家のお世継ぎは将軍が最後に決断すべき所を、孝明天皇の「鶴の一声」で慶喜を次期将軍に決してしまおうとタブーに挑戦した程であったが、井伊直弼を筆頭とする、幕府政治をこれまで主導してきた譜代大名・大奥の勢力が激しく反発したため、ついに斉昭も慶喜も失脚し、慶喜は計4年間も謹慎させられた。そして井伊直弼の推薦で、まだ幼い徳川家茂が次期将軍に決定し、程なく14代将軍となった。

慶喜が謹慎中に政敵の井伊直弼と実父の斉昭が相次いで亡くなったが、慶喜の謹慎は続いた。そんな謹慎中であった慶喜を救い出したのは、薩摩藩国父と自称する島津久光であった。久光の兄の島津斉彬は薩摩藩主で名君として知られていたが、斉彬は病死する直前に弟・久光の子の島津茂久を次期薩摩藩主にすると遺言していた。遺言通り、島津茂久が藩主となり、茂久の実父の久光が後見役となった。普通は息子が藩主となれば嬉しいものだが、久光は自分が藩主になれなかったことを非常に恨んでおり、みずから「国父」と称し、何が何でも息子の薩摩藩主以上の存在になることを欲していた。そこで久光はついに、薩摩軍を率いて上洛し、謹慎中の慶喜を将軍後見職に任命せよという勅命を取り付け、そのまま勅使を伴って江戸に下向して、幕府に伝達した。こうして慶喜は謹慎中の身から一転して幕府のNo2である将軍後見職に就任したのだが、久光の「息子の茂久が正式な官位を持っていて、父親の拙者にないのはいやだいやだ ちゃんと官位がほしい 息子より偉い官位がほしい!!」という長年の宿願を、慶喜は一蹴してしまった。薩摩藩のおかげで将軍後見職になって政界にデビューできたものの、薩摩藩の傀儡にはならないという慶喜の強い意思表示だが、久光からすれば何のために慶喜を助け出したのか訳が分からず、「骨折り損のくたびれ儲け」の感覚だっただろう。

その頃、京都では尊王攘夷を唱える長州藩が、わが物顔で君臨し、西洋嫌いの公家たちからの覚えもめでたく、幕府の役人たちは手も足も出せなかった。慶喜は巻き返しを図るべく会津藩主・松平容保を京都守護職に任じ、慶喜自身も上洛したものの、露骨にアンチ攘夷の姿勢を見せると西洋嫌いの天皇からの信頼を失うので、「5月10日に攘夷を実行します」と調子よく天皇には返事しておいて、実際には攘夷を実行しないという適当に弥縫策を講じてその場凌ぎに徹した。やがて長州藩は、会津藩及び薩摩藩のクーデターで失脚すると、天皇の下で有力大名が集合して国政を討議する参与会議が発足した。慶喜も島津久光も参与会議のメンバーに選ばれたが、薩摩藩が参与会議を踏み台に勢力を広げれば、徳川の天下は危ういと判断。島津久光が横浜開港を唱えれば、慶喜は本心ではそれに賛成しつつも、横浜閉鎖を主張するなど、真っ向から対立しているように見せかけた。そして酒の席で久光らを「天下の大愚物」などと侮辱する言葉を発し、久光が怒って参与会議から脱退して薩摩に帰国してしまった。参与会議は解散したが、慶喜は京都に残り、天皇がいる御所を警備する禁裏守衛総督となり、京都の政界は慶喜が掌握することとなったが、慶喜との関係が決裂した薩摩藩は長州藩に接近し、討幕派となっていった。一方で、怜悧な慶喜は、故郷の水戸で天狗党とかいうキチガイ尊王攘夷集団が蜂起して幕府軍に敗れ、京都に居る慶喜を頼ってこようとした時には、梯子を外して幕府による天狗党大弾圧を黙認した。

さて第二次長州征伐で幕府軍は、薩摩藩の支援で最新鋭の武器を揃えた長州軍に大敗し、徳川将軍が天下人である状況自体が危ぶまれる絶体絶命の状況となった。そんな中で、14代将軍の徳川家茂が病死した。家茂はかつて慶喜と14代将軍をめぐって争った経緯から慶喜を嫌っており、3歳児の徳川家達(当時は亀之助)を15代将軍にするよう遺言した。しかし徳川将軍の存続すら危うい中で、3歳児を将軍にすることは暴挙に等しいと幕臣たちは考え、政治手腕が評価されていた慶喜が15代将軍に選ばれたのであった。慶喜は、さらに自分の価値を最大限吊り上げようと、何度も15代将軍を固辞して、最後に「幕臣みんながどうしてもと頼むなら、将軍職を引き受けますよ」という体裁で引き受けた。早速、フランスを参考にした幕政改革に着手するが、薩摩藩と長州藩などの討幕派が慶喜の改革を待ってくれるはずもなかった。討幕派は「幕府を討て」と天皇が命じる討幕の密勅を大義名分に挙兵を企んでいると慶喜は知ると、すぐさま「幕府やめまーす 天皇に政権をお返ししまーす」と宣言して幕府を自主廃業してしまい、討幕派を面食らわせた(大政奉還)。慶喜としては、討幕派は幕府を討とうにも幕府が存在しないなら振り上げた拳のやり場がなくなるうえ、和歌を詠むことしか能がないような朝廷に実際の政治能力は皆無だから、事実上徳川の天下だなとほくそ笑んでいたが、薩摩軍が天皇がいる御所を真夜中に占拠してしまい、慶喜にすべての官位と領地を天皇に返上せよという無理難題な勅命を突き付けた。慶喜は、討幕派が「徳川は天皇に逆らう朝敵だ」という構図を作ろうとしているという真意を見抜いていたが、怒りに逆上した幕臣らを制御できず、鳥羽・伏見の戦いが勃発。しかし案の定、討幕派の薩摩藩・長州藩の軍には天皇の御旗である「錦の御旗」が掲げられ、旧幕府軍は大敗してしまう。幕臣たちは最後の一手として慶喜直々の出馬を求め、慶喜は幕臣らに快諾する返事を与えたが、その夜、忍術を利用して、1万5千の旧幕府軍を見捨てて、ちゃっかり妾だけはしっかり連れて、小姓姿のコスプレで夜逃げした。しかも慶喜は旧幕府軍の主力である会津藩と桑名藩の両藩主に、「出馬の打ち合わせをしたい」と呼び出しておいて、そのまま無理やり自分の夜逃げに連行してしまった。ただ突然の夜逃げであったため、乗船予定の軍艦・開陽丸が待ち合わせ場所に現れず、冬の夜の海をさすらっているうちに、偶然通りかかったアメリカ海軍の軍艦に拾ってもらい一泊させてもらう体たらくであった。翌朝に開陽丸が現れるとそれに乗り替え、艦長は船に不在だったがそんなことに構っている余裕はなく、副艦長に今すぐ江戸へ行くよう厳命して夜逃げに成功したが、敵味方両方から非難された。「上様」と会津・桑名両藩主に夜逃げされた旧幕府軍は総崩れとなり、西日本は全て、討幕派の支配下となった。

江戸城へ入った慶喜は、討幕派と戦わずに江戸を明け渡すことを宣言し、勝海舟に討幕派との交渉を託した。とはいえ慶喜は、自分の将来について、徹底抗戦を主張する幕臣に毒殺or暗殺されるか、討幕派に捕まって死罪に処されるか、いずれにせよ自分の余命はわずかだと覚悟し、最後の晩餐のつもりで側近に命じてウナギやまぐろを買いに行かせて食べていた。 その後、勝海舟西郷隆盛の交渉のおかげで何だかんだで生き残り、明治維新で江戸城を天皇王朝にあっさり明け渡すと、徳川慶喜は権力を失って無位無官の平民同然となって、幼少期の勉強部屋でもあった水戸藩校・弘道館至善堂で謹慎した。その後は静岡に転居し、「将軍?公武合体?何それ?」とと惚けつつ、何一つ政治に関心を示すことなく、新たな特技となった子作り、写真撮影、自転車サイクリングなどに没頭した。後に名誉が回復されて公爵や貴族院議員に就任して東京に戻っても、まったく政治に関心を示すことなく余生を送り、徳川将軍15名で一番長生きの77歳で病死した。

又、自宅警備員の先駆け。自宅警備は明治政府からの指令だとか。でもそんなに悪い人じゃないんだし、あんまり悪く言うのも気の毒かもしれない。明治政府からマークされていたので、自宅警備をやめていたら天寿を全うできなかったと言われる。

人物・逸話[編集]

これが噂の徳川ケーキ
  • 慶喜を音読みするとケーキとなることから分かる通り、チーズケーキが大好物。また慶喜自らもケーキ職人であった。もともと「慶」の字は12代将軍の徳川家慶から貰ったものであるが、もう片方の字である「喜」はこれを狙って「キ」と読む漢字を探して縁起が一番良いものを選んだものである。実際の前半生がどうだったかは別として…。
  • 基本的に事なかれ主義ヘタレだが、肝心な所では洞察力の鋭い聡明な英傑に変貌した。
  • 写真を撮る事が趣味であり後年はかつての敵である伊藤博文などに復讐する意味もかねて、彼らの秘密やスキャンダルを写真にとって、週刊誌に売りつけていた。
  • 安倍川鉄橋を渡る列車という後の世の撮り鉄もかくや、という写真や、靖国神社に建つ大村益次郎像など撮影している所をわかる人が見たらおったまげたんではないかという写真も確認されている。
  • また念写を得意とし、念写で女湯や女子更衣室を隠し撮りしていた。田代ミラーマンは捕まったが彼は捕まらなかった。ある意味彼ら以上の神かも知れない。
  • 豚肉が好物であったため「一橋の豚野郎」、略して豚一様と呼ばれた。しかしこの豚とは実はノーパンしゃぶしゃぶを表す隠語であり、慶喜の変態ぶりを示している。
  • ねこまんまことおかかご飯が好物であったが、略して猫一様とは呼ばれなかった。残念。
  • 新選組斎藤一と交流があり、彼に「俺もるろうに剣心に出してよ」と言った事がある。
  • ゾンビを町に放ち、長州・薩摩に抵抗しようと画策した。

関連項目[編集]

ラストエンペラー
先代
徳川家茂
1858年-1866年
徳川幕府将軍
徳川慶喜
1867年-1868年
次代
(王朝崩壊)