大東亞戰爭
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大東亞戰爭(だいとうあせんそう)とは、昭和十六年(皇紀二千六百一年、西暦一千九百四十一年)から昭和二十四年(同二千六百九年、一千九百四十九年)にかけて、大東亞に於いて行はれた大日本帝國(日出づる國)と亞米利加合衆國(アメリカ合衆國)との戰爭である。滿洲事變と支那事變については別項で扱ふ。
目次 |
[編集] 概要
昭和十六年の布哇・馬來沖海戰(ハワイ・マレー沖海戰)により日米軍の戰鬪が始り、中途島海戰(ミッドウェー海戰)で日本軍は大損害を被り、昭和十九年より本土爆擊を受けるやうになつた。しかし昭和二十年に日本海軍の高性能戰鬪機「震電」、昭和廿二年に陸海軍が共同で開發してゐた長距離爆擊機「富嶽」が完成し、昭和廿三年には羅府(ロサンゼルス)及び桑港(サンフランシスコ)に対する大規模爆擊に成功した。
これによつて戰局は大轉廻し、日本陸軍による亞米利加西海岸上陸にも成功した。同年に、亞米利加軍に占領されてゐた比律賓島(フィリピン島)及び硫黄島を奪囘し、日本は本土爆擊を受けることがなくなり、軍需物資を大量に生産出來るやうになつた。かうして西海岸から大量に軍事物資を送り込まれた日本軍は、亞米利加の守備隊を次次に擊破して、昭和二十四年には南部の油田地帶を制壓し、遂に華盛頓(ワシントン)及び紐育(ニューヨーク)方面への攻擊準備が整つた。まづは北部より紐育へ侵入して、多くの死者を出し乍らも三箇月かけて制壓した。そして華盛頓を目前にしてもトルーマン大統領は往生際悪く降伏せず、日本が華盛頓に新型の原子爆弾を投下し米国人を殲滅する意志を新たにして初めて愚かな白人供は降服の聲明を發表し、日本軍の勝利を以て戰爭は終結した。
[編集] 戰鬪の經過
[編集] 昭和十六年
十二月八日 布哇・馬來沖海戰に於て、帝國海軍の機動部隊が布哇の米海軍に大損害を與へる。
十二月廿五日 香港陥落。
[編集] 昭和十七年
四月九日 帝國海軍、錫蘭沖で英吉利艦隊を擊滅。
六月六日 中途島沖で帝國海軍機動部隊と米艦隊との海戰で、帝國海軍は主力空母四隻を失ふ。
[編集] 昭和十八年
二月七日 皇軍、ガダルカナル島を轉進。
十一月 聯合國、カイロで對日方針などを話し合ふ。
十一月六日 大東亞會議にて、大東亞宣言採決さる。
[編集] 昭和十九年
七月三日 インパール作戰中止さる。
十月 レイテ沖で日米艦隊が交戰。海鷲、敵艦に對し、壯烈なる特別攻擊を敢行す。
[編集] 昭和廿年
三月十日 東京大空襲。
三月廿六日 硫黄島玉碎。
四月七日 沖繩特攻へ赴く米國の戰艦アイオワ、戰艦ニユーヂヤーヂー、戰艦ミヅーリを、九州坊ノ岬沖で擊沈。
七月廿六日 ポツダムに於て米英蘇の首腦が會談し、對日降伏條件と稱して、謀畧宣傳を行ふ。
八月八日 蘇聯が對日宣戰布告す。
八月十五日 玉音放送。天皇陛下、戰局挽回へ向けて、御自ら臣民を激勵あらせられる。
九月三日 日本、朝鮮の咸鏡北道吉州郡附近で核實驗に成功す。
九月十日 日本、米軍占領下のグワム島に原子爆彈を投下す。
九月十二日 サイパン島にも原子爆彈を投下す。以後本土空襲はなくなる。
[編集] 昭和廿一年
二月十三日 日本、激戰の末、フイリツピンを奪還す。
七月十四日 日本軍、ガダルカナル島を奪還。
八月一日 日本軍、オーストラリア爆撃の拠点として、ニューカレドニア島を制圧。
九月三日 日本軍、シドニーを爆撃。
九月五日 日本軍、ブリズベンを爆撃。
[編集] 昭和廿二年
八月 皇軍、印度全土をほぼ制圧。
八月十五日 印度独立。自由印度仮政府を中心とする政権発足。帝國政府、直ちに新政権と同盟を確認。
八月三十日 満州より蘇聯国境を突破した関東軍がハバロフスクを制圧。
十月九日 関東軍、ウラヂヲストクを制圧。
十月三十日 重慶陷落。國民政府、首都を成都に移す。
十一月四日 獨逸・伊太利、樞軸國側に寢返る。
十二月廿四日 第二次ミツドヱエ海戦で、アメリカ海軍は主力空母六隻を失ふ。
[編集] 昭和廿三年
三月九日 日本、布哇全島を完全制壓す。
五月七日 帝國海軍、巴奈馬運河を強襲。船舶の航行不能になる。
六月七日 東京大空襲の報復として、大型爆撃機富嶽の大編隊が羅府を爆擊。
六月廿一日 成都陷落。國民政府、首都を西安に移す。
十一月十五日 西安陥落。
十一月廿九日 支那、對日獨降伏。
[編集] 昭和廿四年
一月七日 日本軍、オークランド港を制壓。
一月二十日 オークランド港より陸軍部隊が上陸す。
二月二日 羅府陷落。
四月廿日 日本軍、モスクワを包囲
四月廿五日 スターリン、ピストル自殺。遺体は側近により燃やさる。
四月廿九日 蘇聯、對日獨降伏。
五月一日 陸軍、テキサスの油田地帯を確保。
六月十三日 昭南(新嘉坡)で日獨首腦が會談し、對米降伏條件を昭南宣言として公表す。
六月廿五日 紐育(ニューヨーク)陥落。
七月四日 米、對日獨降伏を聲明。昭南宣言を受諾す。
七月廿日 山下奉文元帥、飛行機にて紐育の飛行場に到着す。
七月廿三日 マンハツタン沖の戰艦大和艦上に於て米國全權、對日獨降伏文書に調印す。
十月廿四日 國際平和の爲、大東亞宣言に基き、東京に樞軸聯合が發足。常任理事國は日獨伊印の四國。
十一月十二日 孫文の誕生日である此の日に支那國際軍事裁判開廷す。
[編集] 戰後處理
亞米利加本土に進駐した日本軍は華盛頓に樞軸國軍總司令部をおき、亞米利加國民を皇民化すべく樣樣な改革を實施した。また、大東亜宣言に基ひて、国際平和のための機関を創設することを日本が提案し、独伊印の三国が同調し、枢軸連合として東京に発足。初代加盟国は51ヶ国で日独伊印の四国が常任理事国とされた。常任理事国には拒否権などの強大な権限が与えられ、以後の国際政治はこの四カ国を中心として展開されていった。
[編集] 戰争の結果
戰争の結果、紐育(ニューヨーク)に枢軸國軍總司令部が置かれ、亞米利加政府に対して指令を出すという形で間接統治が行われた。亞米利加の一國主義が亞米利加を東亞侵略への野望に駆り立てたとして、亞米利加合衆國憲法の改正を亞米利加政府に対して指示した。しかし、亞米利加の政府案はもとの憲法を微修正したのみで本質的にはなんら換わらなかったので、山下奉文元帥が總司令部案を示し、亞米利加政府がそれを微修正し、議会に承認せられた。その内容は、亞米利加合衆國が天皇陛下を元首として仰ぎ、戰争を放棄するというものである。そして昭和31年に神戸平和条約が結ばれ、亞米利加の主権が回復した。またこの条約と同時に日米安全保障条約が結ばれ、總司令部の占領が終わった後も、日本軍の駐留が続くことになった。
[編集] 名稱問題
この戰爭の名稱は大東亞戰爭が正式であるが、日本國内の極左勢力、支那貧民共和國(これは獨立國家ではなく、極左妄想主義者による市民團體である)、小韓民國(反日武裝集團)などの壓力により、事實上太平洋戰爭といふ名前が強要されてゐる。日本軍が戰つたのは太平洋地域だけではなく、印度方面や支那地域も含まれるから、太平洋戰爭といふ呼稱は相應しくない。このことで反論されることを恐れた共産主義者は亞細亞太平洋戰爭や拾五年戰爭といふ安直で冗長な名稱を考へ、事を更に複雜にしてゐる。なほこの問題を特に煽つてゐるのは朝日新聞や市民團體などである。
[編集] 大東亞共榮圈
大東亞共榮圈を參照せよ。
[編集] 支那の動向
戰前から妄想主義者と知られてゐた毛澤東により、支那貧民共和國の建國が宣言されたが、やはり彼の妄想に過ぎず、彼の側近以外に贊同する者はをらず、民衆からは完全に無視された。結局彼は支那國際軍事裁判によつて死刑が言ひ渡され、彼の妄想は刑場の露と消えた。なほ支那地域は昭和廿三年末には日本軍に完全に制壓され、樞軸國軍總司令部の北京方面支部による管理下におかれた。





