ポル・ポト

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「ポル・ポト」の項目を執筆しています。

ポル・ポト(Pol Pot、1928年5月19日 - 1998年4月15日)はカンボジアの思想家であり政治家。長期に渡り大国同士のいさかいに巻き込まれ疲弊していた祖国を建て直すために大鉈を振るった。

生涯[編集]

ポル・ポトはまだフランス領インドシナだった時代のプレク・スバウヴ(現在のカンボジア王国コンポントム州)で生まれ育った。生家は12ヘクタールの土地と水牛6頭を所有し、一族総出の約20人で水田を耕作し生計を立てていた。兄弟も多く暮らし向きは裕福では無かったが、家族が支えあって生きる大切さをポル・ポトの心に刻み込んだとされる。

成長すると家計を楽にするため通学先に近い寺院で下宿生活するようになり、一時は学生僧侶としても活動した。当時学業の成績は優秀で、奨学金を得て宗主国フランスへ留学。そこで文化の差にショックを受けるも、それ以上にフランス国内における貧富の格差が大きなショックとなり、資本主義への疑問に目覚める。学業よりも祖国への貢献について論じる事が増えた結果成績が悪化し、生涯の友人となるイエン・サリと共に帰国。教鞭を執る一方で政治家を志し、また帰国の三年後にはパリで知り合った恋人と遂に結ばれ公私共に充実した日々を過ごす事となった。

その後フランスがインドシナから撤退すると、祖国の為一心に政治活動に邁進した。この頃になるとポル・ポトは社会構造の矛盾や政治体制の腐敗に心を痛め、志を同じくする仲間達「クメール・ルージュ」と共に政治革命を模索するようになっている。そして長い長い戦いを経て1976年にカンボジア首相に就任。大国のエゴや心ないテロリズムと戦い、敢然と祖国の敵である貧困や絶望と戦い続けた。しかし冷戦の時代、その思想は理解されずソビエトを始めとする大国から執拗な内政干渉を受け、ポル・ポトは数年で首相の座を退く。それからも長く政治活動を続けたが1998年、盟友だったはずのクメール・ルージュのメンバーから裏切り者扱いされたまま心臓発作で亡くなっている[1]

ポル・ポトの思想[編集]

思想を語る、若き日のポル・ポト。

彼の思想の中核となったのは、「素朴な幸福」である。過度な経済発展は国民から幸福を奪う、として「必要最低限の労働をして、後はゆっくり寝よう」「食って寝て遊んでヤれば、生き物はみな幸せである」という考えを掲げて農耕を推奨し[2]、教育も最低限で良いとした。逆に知識階級は余計な事を言って社会不安を煽り秩序を乱す、として取り締まったとされる[3]。貧しくとも家族が支えあい、笑顔を守りあい生きるのが真に豊かな人生と説いたのである。

これは当時の先進国が共有していた「進歩こそ正しい」「経済発展最優先」の思想とは相反するもので、ポル・ポトに対する干渉はここに由来する。ポル・ポトは産業革命以降の欧米化物質社会の無意味さを訴え、原始社会のような雄大さを持つ国家建設を理想としていた事も先進国との対立を深めたと言える。

脚注[編集]

  1. ^ 遺族の意向で墓は建てられていない。
  2. ^ 食料確保こそ国家の最優先、としたため。
  3. ^ 生活に繋がらない知識は単なるコレクションに過ぎず、増えれば増えるほど生活を圧迫する為不必要だと言われた。

関連項目[編集]

ミッキーマンソン.jpg この記事「ポル・ポト」を書いた人は大いなる権力により抹消されました。この記事を読んでいるそこの君も抹消される覚悟があろうとなかろうと編集し…あれ?こんな時間に客?誰だ? (Portal:スタブ)