ベトナム戦争
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ベトナム戦争(べとなむせんそう、英:Vietnam War 正式名称、第一次イラク戦争)とは、超大国という錯覚、夢、妄想からアメリカ合衆国を解き放った目覚めの一撃の総称である。残念なことにアメリカはその後、2001年9月11日から再度深い眠りについている。
[編集] 概要
このベトナム戦争については、世界中にルールを守れと叫び続けるどっかの国による卑怯なだまし討ちを嚆矢として始まった戦争である。宣戦布告をしていないため、ベトナム紛争とも呼ばれている。また、第二次大戦からインドシナ半島で続いた戦争の一つとして、第二次インドシナ戦争とも言われている。なお、第一次インドシナ紛争は、1954年にディエンビエンフーの戦いでおフランスを完膚無きまでに赤いナポレオンがたたきつぶすという喜劇で終結している。
この戦争は、アメリカ合衆国を中心とした民主主義陣営が、共産主義勢力の拡大を防ぐという名目で始まり、10年以上にわたって続けられる。見事なる妄想の下で。その内訳はまさに悲惨の一言で、ひげのじじい率いるベトナム民主共和国(以下、北ベトナム)と、対峙するベトナム共和国(以下南ベトナム)、および南ベトナムを金と兵士とまるで役に立たない屁理屈で支援するアメリカ合衆国がベトナムの地で殺し合いをしまくった結果、「自由のための尊い犠牲」、もしくは「祖国の独立のためには仕方なかった」として、300万人が犠牲になっている。その内実はまさに戦争の一文字に集約されており、自由だの、平等だの、人間愛だのゆう戯言は、徹底的に排除された。そして、最終的に米北南、三者の中ですべて、アメリカが悪いということで決着している。まぁ、負けたわけだし。
戦争の形態がめまぐるしく変化しているのも特徴で、1960年から1963年までは南ベトナム解放民族戦線(以下ベトコン)と南ベトナム軍の内戦の様相だったが、それ以降はアメリカ軍の介入が本格化し(ベトコン対南ベ、米)、その後、1968年1月のテト攻勢以降、ベトコン勢力は弱体化し北ベトナム軍が本格的に参戦するようになる(北べ、ベトコン対南べ、米)。また、当初は装備も貧弱なゲリラ戦が主流だったが、最終的には共産圏の最新兵器が続々と投入され、アメリカの最新兵器といえども弱兵に使わせたら意味がないことをまざまざと立証している。てゆうか、AK‐47(カラシニコフ銃)が素晴らしすぎる。
なお、実際に戦争を継続するにあたり、食料自給面以外に資源らしき資源が存在しないベトナムでは、南北双方とも、大きな後ろ盾がなければ戦線の維持すら難しい状態だった。そのため、北ベトナムはゲリラ戦や外交戦、情報戦に謀略戦など、金はかけないけれど頭を使う方向に動くことになる。それに対し、南ベトナムは、頭を使わない分も金と兵士を援助されることで対応している。その結果、粘り強くしつこい敵と暗愚な味方という、勝てるわけがない組み合わせが生まれ、まったく希望の見えない戦争に労力を傾けたアメリカの屋台骨が大きく揺らぐことになる。
こんな不毛な戦いになんでアメリカがこだわったかといえば、、ベトナム戦争が、当時の米ソという二大強国がお互いに嫌がらせをしまくるという、いわゆる冷戦と呼ばれた環境の中で勃発したことが大きい。両国ともに相手に負けられない、弱みを見せられないというプレッシャーの中で、ソ連は身の丈に合わない軍拡競争を繰り広げ、アメリカは、どうやったら勝てるかすら考えないままベトナムのジャングルで消耗していった。漁夫の利を得たのが、日本とヨーロッパ。
ちなみに、ベトナムにとってのベトナム戦争は、一応は、民族自決だの、民族独立だのいうベトナムの南北統一を目的とした戦争であった。もっとも、南北米、三者の実際にドンパチやってる連中にとっては、そんな話はどうでもいいことである。ようは、目の前にクソむかつく野郎がいて、そいつを殺してもいいという状況であり、なおかつ、そうすることで食い扶持を稼ぐわけなのだから。
未来や夢、愛を語った連中から現実に押しつぶされていく。
[編集] ベトナム戦争年表(1960年-1975年)
- 1960年:南ベトナム解放民族戦線、通称ベトコン結成。早速反政府活動に従事(12月)。なお、間違いやすいベトミンは第二次大戦中に日本軍と戦った組織で、北ベトナム軍全体をさす。
- 1961年:えーかっこしーのジョン・F・ケネディがアメリカ大統領に就任(1月)、アメリカが南ベトナムにヘリ部隊と軍事顧問団を派遣、地球の裏側にちょっかいを出し始める(11月)
- 1962年:米軍が「南ベトナム軍事援助司令部」を設置。ついに自分たちで独自に動くことを決める(2月)、南ベトナムとラオスが国交断絶。わざわざ敵国に利する行為を働く一番の味方にアメリカびっくり(11月)
- 1963年:アプバクの戦いで圧倒的な兵力を持つ南ベトナム軍、惨敗。ケネディ大統領、ため息とともに米軍の本格参入を決める(1月)、米軍を自由に戦わせてくれない南ベトナムのゴ・ディン・ジエム大統領と秘密警察長官だった弟の2人、軍事クーデターで兄弟仲良く向こうの世界へ。CIAはもちろん情報をつかんでいて、大統領のお許しを得てから実行を軍に許可。そのわずか3週間後、まるで計ったかのようにようにケネディ大統領もヘッドショット。5年後、司法長官やってた弟もヘッドショット。(11月)
- 1964年:たった2ヶ月で南ベトナムのグエン・カーン将軍、再クーデター。ここから、軍事クーデターが国をあげての年中行事となることが決まる(1月)、トンキン湾事件発生。嘘と妄想と間違った正義が、やってもいない艦船への攻撃を生み出す(8月)
- 1965年:アメリカ軍による北爆開始。北ベトナム、いわれなき攻撃で頭に来た北ベトナム、国を挙げての戦時体制に突入。中央集権化、軍事増強、国民総動員などで、結果的に戦力増強(2月)、アメリカ海兵隊が最前線の都市「ダナン」に上陸、最前線に一大軍事基地を造営し、その後、格好の的になる(3月)、高木正夫、アメリカから金を巻き上げるために韓国軍を派遣、大活躍。その後にベトナムと韓国の間で外交問題となる種をまき散らす(10月)
- 1966年:北ベトナムに対する「B-52」による初空襲、勝てない時のストレス解消法として大人気になるも、そのおかげでほかの国から総スカンを食らい、外交の場で徹底的に負ける原因になる(4月)、初のクリスマス休戦。たまの休みを喜んだ連中は1年と1ヶ月後に痛い目を見る(12月)
- 1967年:南ベトナム解放民族戦線がダナン基地を攻撃。その場所を撃てばフランス軍に当たるというディエンビエンフーで培った戦術が、ついにアメリカ軍にも適用される(7月)、アメリカ合衆国らしく、選挙でグエン・バン・チューが南ベトナム大統領に就任。ただし、思いっきり軍人でさらに麻薬密売組織の元締めだったことについてアメリカは目をつぶった(9月)もう一つの的、ケサン基地に対する攻防戦が始まる(12月)
- 1968年:正月休みの中、テト攻勢開始。アメリカ大使館が一時占領される映像が世界中に流された後で、リンドン・ジョンソン大統領は米軍の大勝利を喧伝。誰も信用しない(1~2月)、事件発覚後、首謀者は捕まるも速攻で保釈され、今ものうのうとアメリカで生きているソンミの虐殺発生。併せて、ジョンソン大統領ベトナムからの撤退を宣言(3月)、ようやくパリで和平交渉開始(5月)
- 1969年:和平交渉の開始に伴い、北ベトナムが南ベトナム臨時革命政府の樹立を発表。紛らわしいことこの上ない(6月)、ひげのじじい死ぬ。国が分裂すると期待したアメリカの期待を裏切り、北ベトナム、さらに結束(9月)
- 1970年:カンボジアでロン・ノル将軍によるシアヌーク政権に対するクーデター(3月)南ベトナム軍とアメリカ軍がカンボジアに侵攻、現地にこっそり駐留していた北ベトナム軍に大損害を与える。しかし、その後に反米勢力の支持を取り付けたカンボジア共産党「クメール・ルージュ」が頭角を現してゆく(4月)、カンボジア内戦勃発(10月)。その後、200万人以上が亡くなる大虐殺が発生するが、もちろん、アメリカはカンボジアで行われた虐殺とは何の関係もないと主張している。さすが。
- 1971年:南ベトナム軍とアメリカ軍がラオスに侵攻。現地にこっそり駐留していた北ベトナム軍、前回の轍を踏まずに撃退(2月)、ニューヨーク・タイムズ紙に「ペンタゴン・ペーパーズ」連載開始。政府機密文書が大公開され、楽しいぐらいに嘘と妄想と間違った正義が国民にばれる(6月)南ベトナム傀儡大統領選挙が行われ、首のすげ替えが自由な置物、再度当選(10月)
- 1972年:ソ連直輸入の北ベトナムの戦闘機がアメリカ艦艇を初攻撃(4月)、アメリカ軍無制限北爆再開。信じられないほどの爆薬を落とし、北ベトナムに大ダメージを与えた後、世界中から非難されてすぐさま停止。そのまま北爆を続けていればアメリカの勝ちだったという妄想の原因となる(12月)
- 1973年:停戦のまねごととしてパリ協定締結(1月)、13年におよぶまったく無益な戦闘を終え、アメリカ軍がベトナムから撤兵する。アメリカ国内は負け戦に途方にくれる(3月)
- 1974年:北ベトナム軍がプノンペンを包囲。親米勢力を追い出す(2月)、リチャード・ニクソン大統領、水門で辞任。その後、テキサスの腐れ脳みそが出てくるまでの間、歴代最悪の大統領との汚名を一身に浴び続ける(8月)
- 1975年:アメリカとの約束なんざ守る必要はこれっぽっちもないと、北ベトナム軍が総力を挙げて南ベトナムへ総攻撃。誰も何も文句は言わない(3月)、南ベトナムの首都サイゴンが陥落し、南ベトナム政府全面降伏。ベトナム戦争終結(4月)、サイゴン市をひげじじい市へ改名(5月)
[編集] 開戦の背景
[編集] 独立運動の広まり
1945年8月、沖縄と広島と長崎と靖国神社に年中行事を行う素地を与えつつ、第二次世界大戦が終結する。すると堰を切ったかのように続々と世界各国の植民地で独立宣言が巻き起こり、ドイツと日本、ちょっとだけイタリアの手によってボーロボロにされた戦勝国に、第二次世界大戦エクストララウンドの開催が宣言されてしまう。特に有名なのは当時イギリス領だったインドで、対独戦争で精根尽き果てたイギリスを見透かすように、マハトマ・ガンジーが独立運動を激化させる。その結果、イギリス最大の植民地だったイギリス領インド帝国は、1947年にインドとパキスタンの2つの国に分離独立する。そして、独立の火種は余すところなく世界中のイギリス植民地に飛び火し、見事に大英帝国による世界秩序、「パクス・ブリタニカ」を崩壊させる。これは、それまで圧倒的な国力でもって世界を制圧していたイギリスが、国力の低下で世界を制圧できなくなっただけのことである。結局、自分で何とかできなくなるほど世界中で植民地闘争が巻き起こり、どうやっても兵も予算も割り振ることが分かった段階で、イギリスはさっさと植民地主義を捨てる。しかし、フランスやオランダのように、それほど多くない植民地になんとか兵を割り振ることができてしまったところは悲惨の極地といえ、ようやく戦争が終結し低下した国力を上げないといけない中、インドネシアやアルジェリアといった数少ない植民地での独立運動になけなしの兵力と戦費を回さざるをえない状況に追い込まれていく。
幸いにも、インド独立の段階で植民地主義を放棄したイギリスは独立戦争という泥沼に足を踏み入れることなく、友邦としてある程度の干渉の余地を残しつつ独立させることを選び、その結果、大英帝国は、イギリス連邦という緩やかな同盟関係へと発展してゆく。なお、独立させたアフリカ各国が、次々とクーデターでボロボロになっても、知らんぷりできる特権を手に入れたことは、自国経済と、何よりも国の雰囲気を守るための大きな成果だった。
しかし、世の中にはそんな見事な外交能力を持たない国があり、特に、イギリスを追い落として世界の覇権を握ったアメリカに、そんな微妙な振る舞いができるわけがなかった。そのため、1950年代以降に築かれていく新しい世界秩序、「パクス・アメリカーナ」は、まさに力と力のぶつかりあいによって成立を目指すこととなるが、結局、アメリカも知らんぷりによってベトナム、およびインドシナ半島とのかかわりを放棄することになる。その後も必殺技「知らんぷり」は何回も発動されており、現在のリアル北斗の拳「ソマリア」もアメリカの知らんぷりによってその現状を維持している。
[編集] 冷戦構造とドミノ理論の形成
その頃、世界各国に広まった独立運動の内訳はそれほど金がかからない上、貧乏人でもやっていける共産主義勢力によって指導、支援されている場合が多かった。しかし、中には最初は単なる独立運動にすぎないものだったのだが、いつの間にか資本主義勢力からまったく支援を受けられないため、仕方なくソ連を頼ることも多かった。そういったことが積み重なっていった結果、ようやく世界一になったんだけど、実は後ろから強烈に追い上げられているどこぞの歴史を顧みない国に、共産主義って、実は世界を支配すんじゃね?とアホな妄想を与えるきっかけとなってしまう。また、ひげのおっかないおじさんが1949年に原爆を作っちゃたもんだから、お互いに直接ドンパチするわけにもいかなくなってしまう。結局、米ソ両国ともに、自分たちが支援する勢力に、自分達の代わりに戦争してもらうという、いわゆる冷戦構造が成立していく。
その対立の最たるものがベトナム戦争である。他にも、朝鮮戦争やキューバ危機といった対外的なものや、赤狩り(レッド・パージ)に見られるような自国内における相手勢力への賛同者つぶしもそれに該当する。これは、主に、第二次大戦後のアメリカの準備不足、研究不足が原因で、対外的な介入においてことごとく敗北しまくったことが大きく影響している。自分たちが支援した蒋介石が負けて、毛沢東によって中華人民共和国が建国されたり、東ヨーロッパ諸国で、共産主義政権がドカドカ成立していく光景を目の当たりにすると、共産主義が心底恐ろしいものだと錯覚してしまう。ただし、中国も東ヨーロッパも、ソ連は第二次大戦が始まる前から介入しており、共産政権が樹立されてもなんらおかしくはない状況だったのだが。
そして、自分達の準備不足、予測力のなさを棚に上げ、世界各国がまるで“ドミノ倒し”のように共産主義化していると錯覚し、その結果、一国の共産化が周辺国へのさらなる共産化を招くというドミノ理論が唱えられることとなる。各国の独自の歴史、文化についてまったく省みようとしていないところが素晴らしい。この段階でアメリカはは、各国の情勢を全く無視し、国民が圧政と搾取から免れるため&自由を求めて行動したという事実から目をそらし、単に自分の味方を標榜する無能な連中を逐次支え続けることを選択する。調べれば誰だってわかるはずなのに。その結果、アメリカはアジアや中南米諸国の共産主義者、民族主義者とことごとく対立し、各地の独立紛争やクーデターに深く関わるようになっていく。なお、共産主義勢力と敵対するためなら、ファシズムを信奉する独裁者とも平気で手を組んでいる。
それを総統は見事に予言していたわけだ。
[編集] 第二次大戦後のベトナムの状況
世界規模のドンパチが終了した後、筋金入りの共産主義者で反植民地闘争レベル100のホー・チ・ミンはベトナムの独立を勝手に宣言していた(1945年9月2日)。もっとも、ベトナムに日本軍が進駐してからずっと独立闘争を続けていたため、特におかしなことでもなかった。彼はハノイに首都を置くベトナム民主共和国(北ベトナム)を成立させ、共産主義を基礎にした国造りを目指すため、それまでこそこそやっていた旧来の地主階級や豪商から財産をぶんどって、貧乏人に分け与える政策を大々的に始める。なぜなら、共産主義はそれこそが目玉だ。もちろん、ただで農民に土地をやるわけはなく、対価として兵力と食料を要求、その後、1989年まで続く戦時体制の整備につとめている。また、降伏した日本兵から日本軍の軍事機構や戦術、そして何よりも、自爆攻撃を取り入れた上で、どうせまたやってくるであろうおフランスとの戦争に備えた。なお、その後、アメリカ軍をいてこましたゲリラ戦術は、13世紀、ベトナムにモンゴルや元が侵攻してきたときすでに取り入れられている。
そんな中、のこのこと旧宗主国のフランスが帰ってきた。
ちなみに、第二次大戦中、ベトナムは1943年まで日本軍とドイツ占領下のフランス(ヴィシー政権)が共同統治をしていた。しかし、1945年3月フランスが解放されると、駐留していた日本軍が自国政府を無視して勝手にフランス軍を追い出し、傀儡政権(越南帝国)を立てる。ところが、半年経たずに日本も敗戦したため、軍事機構や社会体制、何よりも日本軍が治安を維持した平和な都市などがそのまま残っていた。しかも、現地の日本軍は武装解除しており、だとしたらもう一回来てもいいかな、と思っても仕方がない。その戦術をベトナム軍が継承していることなぞつゆ知らず。フランス軍は、ベトナムに再上陸するとホー・チ・ミンの影響の少ない南部に拠点を置き、北のベトナム民主共和国に対するコーチシナ共和国を1946年3月に成立させる。なお、政権を樹立させるためにわざわざ選挙を行わなければならなかったどこぞのイラクと違い、おフランスは越南帝国の皇帝、バオ・ダイを首長に据えている。
[編集] 第一次インドシナ戦争
無事、ベトナムに再上陸し、いつものとおり傀儡政権を立てたフランスは同年12月、ついに北ベトナムへ本格的なちょっかいをかけることにし、第一次インドシナ戦争が勃発する。当初、ゲリラ戦のなんたるかを理解していなかったフランスは連戦連勝、まるでロシアに進軍するナポレオンのごとくに支配地域を広げている。なお、フランス政府は事前に平和維持と称して自軍をベトナムの各都市に駐留させており、そのため、北ベトナムの首都であるハノイも開戦直後にフランス軍の勢力下に置かれている。そして開戦に併せて1948年にコーチシナ共和国を解体、ベトナム臨時中央政府を発足させて、傀儡なんだけど実は民主主義というよくあるお仕着せの政府のまねごとをさせたり、1949年6月、新しく、ベトナム国という何のひねりもない国をサイゴン市(現ホーチミン市)を首都に成立させるなど、(首班は元の政府とまったく同じ)、主にヨーロッパ各国のつっこみが入らないような形で、植民地をいっぱしの国の形をしたものへ変貌させようとする。しかし、当然のごとく傀儡政府に対するベトナム民衆の支持はなく、日本降伏後に言ったもん勝ちで宣言したベトナム独立宣言のほうにもっぱら関心を向けていた。
なお、越南帝国崩壊後、フランスによってコーチシナ共和国の首班に担ぎ出されれるまでの間、ベトナムの王様、バオ・ダイは実は、ホー・チ・ミンにより北ベトナムの「最高顧問」に任命されている。しかし、その後意見の対立とホー・チ・ミンのあまりにも急進的で戦闘的な考えから、とっとと香港へ逃げ出し、フランス政府に庇護を求めていた。なお、フランス革命の際にそれまでの敵に庇護を求めた結果、ギロチンの露と消えたフランス皇帝と違い、最後のベトナム皇帝は亡命したフランスで天寿を全うしている。確実に、女房の資質の違いによるものである。しかし、彼の後に、女房のおかげで兄弟そろって暗殺される国家元首が出てくるのは皮肉だ。
同じ時期、フランスはベトナム以外でもインドシナ各国に同じようにちょっかいを出しており、ラオスを同年7月、カンボジアを11月に独立させて、インドシナ全域に傀儡政府を立て続けに樹立させていた。おかげで、反フランスでそれまであまり連携をとらなかった三国が手を合わせることになり、こっそりと各国に北ベトナム軍が国境を越えることに関してみてみぬふりをさせる。このことが、後のベトナム戦争の趨勢を決することになるとは誰も気づかない。ただし、民族性の違い、および、圧倒的な動員力の差により、フランスとの戦いの主力はベトナムが担い、他の二国が前面に出ることはなかった。その後、国際社会にベトナム国の正当性を主張しようとしたフランスだったが、1949年、最悪なことに、北ベトナムの隣に中華人民共和国が成立し、それまで孤立無援だった共産主義国家北ベトナムにとんでもなく強力な味方でできてしまう。すると、翌1950年1月にソ連と中国が併せて北ベトナムを国家として承認し、国をあげてどかどか武器&金銭&知識&経験を援助しまくることになった。人海戦術?もちろん取り入れたさ。この承認に青くなったフランスは急遽、アメリカに支援を要請。このことによって、20年後、アメリカ合衆国の名声が地に堕ちることを予測した人間は誰もいない。
[編集] ディエンビエンフーの戦い
ソ連や中華人民共和国から軍事支援を受け、ホー・チ・ミン率いるゲリラ部隊は急速に力をつける。やはり、毒矢よりもAK-47のほうが殺傷能力が高い。そして、急激な情勢の変化にフランスも本気を出し、まるっきり戦意のないベトナム国軍に代わり、本国から精鋭である外人部隊を含むアンリ・ナヴァール将軍指揮下の16,000人をベトナムに派遣。徐々に勢力を拡大していく北ベトナム軍との戦闘を続けた。
その様な状況下、当初連戦連勝してしまったフランスだったが、獲得した地域が広ければ広いほど、維持する能力が減少するという、統治機構の整備された満州だけだったらよかったものの、だだっ広い中国全土に戦線を広げすぎて自壊する日本陸軍と同じドツボにはまってしまい、少しずつ劣勢におかれつつあった。そのため、フランス軍は、情勢の挽回のため、中国からの物資の流入の阻止とラオスの防衛を目的に、1953年11月、中国・ラオス国境に近い山岳地帯にある盆地ディエンビエンフーに大要塞を構築する。なお、この要塞は北ベトナム軍に対する最終決戦のために建設されたものであり、要塞戦自体は、第一次世界大戦には既に時代遅れであるといわれていた。
ディエンビエンフーに着々と大要塞が築かれる中、北ベトナム軍は高い場所から弾を撃てば、ずっと遠くに飛ばせることに着目し、盆地周辺の険峻な山岳地帯に人海戦術で砲台を並べまくっていく。しかし、それに気づかないフランス軍もどうかと思う。1954年3月、ついに北ベトナム軍の総攻撃を開始され、あんな高い山から攻撃されることなんて絶対ないと言い切ったフランス軍はその時点で終了してしまう。結局、自軍の5倍以上の戦力に包囲され、頼みの航空機から支援も空港が破壊されて行えなくなったディエンビエンフー要塞は、5月7日にヴォー・グエン・ザップ将軍が率いる北ベトナム軍によって陥落する。この元植民地軍が旧宗主国を破った歴史的一戦により、ヴォー・グエン・ザップ将軍は「赤いナポレオン」と呼ばれるようになる。もっとも、この段階では単純にフランスに対する皮肉の意味合いが強かったが。しかし、20年後、彼は世界最強のアメリカ軍をも打ち破る。
さらにすごいことに、当事者として存命しているため、アメリカのアホどもによるベトナム戦争架空戦記といった類の妄想を徹底的に封じ込めている。
[編集] 北ベトナムの独立と統一選挙
ディエンビエンフーで凄惨ないじめが続く1954年4月、フランスと北ベトナムはスイスのジュネーブにおいて和平交渉を開始する。当初、互角の戦いであった交渉も、翌月にディエンビエンフーでフランス軍惨敗のニュースが飛び込んできてからは一気に北ベトナムが優位に立ち、同年7月21日によーやく両国の間で和平協定である「ジュネーヴ協定」が成立する。これにより中ソ以外の国家にも北ベトナムが国であると正式に認められたが、ある意味当然のごとくに、いらんことしいの超大国が口を出してきて、北ベトナムとベトナム国との統一の邪魔をしくさる。これは、当時のアメリカがようやくスターリンが死んで共産主義の拡大が一息つくかなーっと思っていた矢先、実は地球の裏側、東南アジアでしっかり自己アピールする姿に驚いたからである。これから先、フランスが去った後のインドシナ半島に共産主義国家群が形成されることを恐れたアメリカは上述した「ドミノ理論」と呼ばれる妄想を元に、いらん口と手、何よりも金を出し続けることになる。なお、インドシナ半島について言うなら、すべて中立的な立場の国にアメリカが手を出して、アメリカに対する憎悪を民衆に広めてから共産主義国家が成立している。しかし、このことを教訓にした形跡は、アメリカの現代史には存在しない。
結局、北緯17度でベトナムは南北に分けられ、南に元々はフランスの傀儡政権である「ベトナム国」を存続させ、統一選挙を1956年に実施することになった。また、ベトナムのほかに、フランスの勢力にあったラオスとカンボジアが独立する。
もちろん、世界中にルールを守れと言っているアメリカが、統一選挙の約束を守る&守らせるわけはなかった。
[編集] ベトナム戦争の推移
[編集] アメリカによる支援
貧乏人と貴族がけんかしている間、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領率いるアメリカは一貫して搾取しやすい勢力を支持し、物資面から情報面に至るまで広範囲に渡り軍事的な援助を各国に対して行っている。実際、同じアジアでもフィリピンでは、大戦中に日本軍の支配に抵抗した共産勢力フクバラハップが、戦後、アメリカ軍の支配にも抵抗、独立運動を展開したものの、見事にアメリカ軍に援助されたフィリピン政府軍によって鎮圧されている。その後、より強固な形でフィリピンを属国化させることにしたアメリカは、独裁者であるフェルディナンド・マルコスを支援、20年以上続く独裁を陰から支え続けている。その結果、フィリピンに独自資本はまったく育たず、結局、アメリカ資本がフィリピンを染め上げる=資本主義の名を借りた搾取体制が出来上がっている。
ベトナムでも、フランスに対するアメリカの援助はかなりの額にのぼっており、当初はフランス軍が勝利するのではないかというのが一般的な見方だった。ところが、ディエンビエンフーでフランスが決定的な敗北を喫っし、ベトナムからの撤退を宣言すると、驚いたアメリカは、フランスの傀儡政権だったベトナム国を急遽支援することを決定する。そして、いわゆる妄想の類の「ドミノ理論」を根拠に、フランスに代わり軍事、経済両面で支え続けていくことになる。あぁ、そうさ、それまでフランスは自由だの独立だのいう屁にもならない支援だけだったのが、アメリカからの大金という実弾に変わったもんだから、ベトナム国政府は大喜びさ。
そして、1955年にベトナム国で実施された大統領選挙で、CIA工作員が支援した反共産主義的な文民政治家であるゴ・ディン・ジエム首相が大統領に当選する。仏教国ベトナムには珍しいカトリックという立場で、家柄抜群、しかも親族を共産勢力に殺されてるもんだからめちゃくちゃな反共産主義者と、まさにアメリカにとってうってつけの人材だった。しかし、こいつ以外にまともな人材を見つけなかったことがアメ公にとって最悪の失敗となる。なお、彼はホー・チ・ミンからもじきじきに国政に参加するよう誘いを受けているほど、ベトナム人の中でも優秀な存在だった。
その後、元皇帝バオ・ダイの勢力を政権から排除し、皇帝をフランスへ追いやったゴは、選挙まで10ヶ月を切った1955年10月に、アメリカの全面的な支援を受けてベトナム共和国(通称南ベトナム、以下南ベトナム)を成立させ、共産主義が大勝することが分かり切ってる選挙なんざ絶対やらせないことを全世界に喧伝する。
しかしその後、ゴ大統領一族による独裁化と圧制、政権の腐敗と、選挙しないことに激怒した北ベトナム支持者による嫌がらせが南ベトナム国民を苦しめることとなり、その結果、謀略や諜報戦といった汚い部門の仕事に慣れていない政治の人、ゴ大統領は国民の信頼を次第に失っていく。まぁ、アメリカが支援する国なんざえてしてこうなる。
[編集] ようやく年表に追いついて、南ベトナム解放民族戦線の成立
1956年、えてしてどうでもいい理由、「北ベトナムが介入してまともな選挙ができない!」により、統一選挙は見送られ、むかっ腹たてた南ベトナムの連中が反政府活動に手を出し始める。また、北と南の国境は警備されても、ラオス経由&カンボジア経由でいかようにも密入国できたため、隣国から反政府活動の教師がボランティアで実践教育していく環境が整えられる。はい、そこのあなた、うわー、イスラム原理主義におけるアルカイダだよって思わない。そして、一通り教育活動も終了した1960年、ついに北ベトナムに指導された南ベトナム解放民族戦線(以下ベトコン)が結成され、南ベトナム軍と政府に対するゲリラ活動&民衆に対するテロを本格的に開始する。もちろん、無垢な民衆を24時間守らせることがどれぐらい軍隊を疲弊させるかについては説明の必要はない。こっちは寝てても相手は疲れる。
当初、ベトコンは共産主義オンリーで活動していたが、その後、ゴ政権の弾圧に抗議する仏教徒や反米主義者、そして、あまりにもアレでアレな姿を見せつけるアメ公に嫌気をさした自由主義者ですら率先して加わっていく。そんなベトコンの中には、政府の要職についた人物や軍の幹部、ジャーナリストに大学教授など、あらゆる貴賤を問わない職種と来歴の人物が含まれ、いったいどれだけアメリカが嫌われていたかを実感できるラインナップとなっている。
[編集] えーかっこしーによる完全撤退計画
1960年、アメリカではミスター悪人顔をさわやかさと歯の白さで打ち破ったジョン・F・ケネディが大統領に就任する。43のオッサンだったことには目をつぶろう。その直後から、東南アジアにおける「妄想と書いてドミノ理論と読むアレ」の最前線にあったベトナムに関する特別委員会を設置し、一応、アメリカ軍を管轄している部署に対してベトナムについての提言を求めた。もっとも、第二次大戦の勝利から何も教訓を得ていない軍隊に提言を求めてもたかがしれてはいるが。また、副大統領のリンドン・ジョンソンをベトナムに派遣し情勢視察に当たらせ、アメリカはベトナム問題に積極的に関わる旨を世界に知らしめた。その後、役立たずとわかる前の特別委員会、および統合参謀本部は、ともに、ソ連の支援を受けてその勢力を拡大する北ベトナムに対抗するには、南ベトナムへ当時世界最強と言われていたアメリカ正規軍を派遣するしかないと提言した。世界最強の軍隊を管轄していると言うわりに、およそ700年前の1257年、当時大越と呼ばれていたベトナムに攻め入った世界最強のモンゴル軍がどうなったかを知っていた人間は一人もいなかった。ちなみに、1282年にもフビライ・ハンが建国した元が大越に攻め込んでおり、フランスと同じくベトナムの地を蹂躙した後でゲリラ戦術によって戦力を疲弊し、その後、ベトナムの英雄、チャン・フン・ダオ(陳興道)による攻勢を受けて撤兵している。そして、再度侵攻するも、再びチャン・フンダオ率いるベトナム軍に白藤江の戦いで惨敗、総大将であるウマールがベトナム軍の捕虜となっている。そのため、大越は元寇における日本とともに、モンゴル軍(元軍)と戦って勝利した数少ない国の一つとなっている。そして、モンゴル軍の総大将ウマールは、ベトナムの外交団が元との交渉へと赴く際に引っ立てられていき、本国へ到着する直前に海に突き落とされる。
そんな歴史を持つ国とは絶対に知らないであろう、後に大統領となるリンドン・ジョンソンは、南ベトナム視察の報告書の中でゴ・ディン・ジェム大統領を「東洋のウィンストン・チャーチル」ともちあげ全面的な支援を訴えている。その後、国民に対する圧政により、世界中から批難される人間を、第二次大戦においてイギリスを勝利に導いた英雄と比べたんだから、始末が悪い。これを受けてケネディは、南ベトナムに対する「軍事顧問団」の派遣を増強することを決定する。その数15,000人。顧問団とは言っているが、要するに、派兵である。そして、最新鋭の兵器を満載にして、颯爽とベトナムに降り立った彼らは、15年後、うなじをたれて故国へと帰ることになる。ま、国旗に包まれた棺桶で帰るよりはよっぽどいけれど。
2年後、このことを教訓として、ケネディはキューバ危機の際に、大切な情報収集作業を軍関係者を交えず、信頼できる弟、および信頼できるスタッフで行っている。その際、アメリカ軍はすでに核ミサイルがキューバに配備されていたことを知らないまま、キューバ国境まで爆撃機を飛ばしつつ、大統領にキューバに対する爆撃の許可を求めている。何回も何回も。なお、自軍の情報収集能力の不備によって世界が破滅しかけたことに対しても、特に米軍が反省した形跡は存在しない。そのため、何をやっても反省しないアメリカ軍を徹底的に反省させた点において、ベトナム戦争はある意味稀有な存在である。
その後、知性と常識、何よりも人の意見をちゃんと聞き、無能な野郎の意見を聞かない(ここが重要)という才能を持ち合わせたケネディはベトナムにおける「軍事顧問団」の早期撤退の可能性を検討しだす。この点において、テキサスの腐れ脳みそとは格が違う。1963年9月、ケネディはテレビのインタビューに対し、「笛ふけど踊らぬサイゴン政府は国民の支持すら取り付けようとしない。地元のやつらがまともに戦闘しないで、どうやって戦争には勝てというんだ。最終的にはこんな戦争、アメリカだけでやってられるか。どう考えても彼らの戦争だろうが。こんな益にもならん、勝つか負けるかもわからない泥沼にこれ以上関わってどうするってんだ。我々は最新式の戦闘知識を備えた軍事顧問団を送り、最新兵器に軍事費、賄賂を援助することはできる。しかしこの戦争は最終的に南ベトナムが共産主義者に勝たねばならないんだから、俺達が最前線にたったところでどうしようもない。我々は仕方ないから彼らを支援し続けるしが、役立たずの南ベトナム政府を住民を支持しなければ、どう考えたってこんな不利な戦争には勝てっこない。私の見るところ過去二ヶ月の間にサイゴン政府は民衆から遊離してしまっている」と答えた。その政府を樹立させたのはどこの国だった?
そして10月31日には、「1963年の末までに軍事顧問団を1000人引き上げる予定」であることを発表した。侵攻する前から泥沼にはまると確定していたアフガニスタンと違い、ベトナムでは傷口が小さい状態で逃げられる可能性があった。しかし、11月に南ベトナムで軍事クーデター発生。ゴ大統領暗殺。しかも、その裏側にはCIAが暗躍しており、ゴ大統領でなかったほかのやつを担ぎ上げればいいじゃん、とばかりに、ケネディのところまでクーデターの了解を得るための電話までかけている。この段階でベトナムという名のウツボカズラに超大国という名のハエがはまりこんでしまう。しかし、自身の手でクーデターにGOサインを出したケネディだが、子飼いのロバート・マクナマラ国防長官に対して、年内に1000人の顧問団の引き上げを再確認しつつ、1965年までの軍事顧問団の完全撤退を発表する。そして、1963年11月22日、本人は意気揚々とテキサス州ダラスでパレードを行う。その結果、珍しく理性と決断力を備えたケネディは永遠のアメリカのヒーローになる。つまり、40過ぎのオッサンをヒーローにせずにはいられないほど、これ以降の歴史は、アメリカ人にとって重い。
- 2003年発表のドキュメンタリー映画「The Fog of War」では、その後、ベトナム戦争でプライドをズタズタにされるロバート・マクナマラ国防長官と、ケネディ暗殺後に大統領に就任したリンドン・ジョンソンの電話の録音記録が紹介され、ジョンソンがケネディのベトナム撤退に強く反対であったことの直接的な証拠を提示している。だって、圧政の立役者を東洋のウィンストン・チャーチルといっちまった人物だし。もっとも、マクナマラ自身、南ベトナムが統一選挙に参加しなかったのは北ベトナムのせいと言い張るような人間で、さらに映像では心底反省しているように見えて、自分の責任についてぼかす部分があるなど、ある程度注意する必要がある。なお、このドキュメンタリー映画の見せ場として、マクナマラとヴォー・グエン・ザップが1対1でベトナム戦争はどっちが悪かったかを議論する場面があり、必死になって議論を煙に巻こうとするマクナマラの醜態を見ることができる。わー、なんてラムズフェルドにそっくりなんでしょう。
- その後、1963年末の一部撤退なんて、パレード後のゴタゴタで当然無視され、アメリカによるベトナムへの軍事介入はジョンソン大統領によってより増強され、戦争は少しずつ泥沼化していく。
[編集] 仏教徒、動く
アメリカからの政治介入が本格化すると、熱心なキリスト教徒であったゴ・ディン・ジェム大統領に南ベトナム特有の出自による差別の影が付きまとうようになる。また、南ベトナムにも、アメリカからの莫大な援助による急速な欧米化が様々な軋轢をもたらし、既存の文化や価値観との摩擦がそこかしこで露呈していく。そんな中、ただでさえ少ないキリスト教徒が大多数の仏教徒およびカオダイ教やらホアハオ教なんていう土着宗教の上に立つ段階で、イラクのおける少数派、スンニ派出身のサダム・フセインと同じく独裁化しなけりゃ国が統治できなくなる。もっとも、フセインもアメリカの後ろ盾で独裁者になれたんだけどね!
その後、日増しに強くなるゴ大統領の強権的な政治手法に対し、南ベトナムの大多数を占める仏教徒が牙をむく。北ベトナムの手回し?もちろんあったさ。
その中で、もっとも強烈な抗議活動が炸裂したのは、1963年6月。事前に新聞やテレビをはじめとするマスコミ各社に対して自らの抗議自殺を告知をした上で、僧侶「ティック・クアン・ドック師」がサイゴン市内のアメリカ大使館前でガソリンを頭からかぶり、端座した上で、自らに火を付けた。このとき、ベトナムの仏教界では、誰が死ぬか?を真面目に議論している。すなわち、死に様が見苦しかったらいけない。高位すぎる僧侶ではいけない。下位の僧侶ではいけない。もちろん、本当に死ねる人物でなければいけない、などなど。
こんな議論するほうもするほうだが、手をあげるほうもあげるほうだ。
本来、焼身自殺の場合は、全身を火が包まれた状態でのたうち回るのが普通だが、師は心頭を滅却すれば火もまた涼しを地でいくように、最後までその端座を崩すことはなかった。なお、この後、彼をまねして世界中で焼身自殺が流行する。中には、ホワイトハウスの中庭にガソリン持ち込んでやっちまった女性もいる。ま、どれだけのたうちまわったかはきくな。信仰心、恐るべし。
ティック・クアン・ドック師の死に様は、当時、なんの規制も存在しなかったマスコミを通じて全世界に放送され、世界中が大きな衝撃を受ける。特に、仏教徒への影響は大きく、日本でもそれまでベトナムの場所すら知らなかった一般人に強烈なゴ政権への反感を抱かせることになる。しかも、それに輪をかけるように、独身のゴ大統領の実弟で、秘密警察の長官だった「ゴ・ディン・ヌー」の奥さん、実質ベトナムのファーストレディーと見られていた「マダム・ヌー」が、アメリカのテレビ番組で問題発言を連発してしまう。彼女は流ちょうな英語で「あんなものは単なる人間バーベキューだ」「アメリカ化に抗議するのにアメリカのガソリン使うなんてどうかしている」など、彼女自体がどうかしているような発言を繰り返し、アメリカ国民に強烈な反感を与えてしまう。ケネディ大統領もまたしかり。そのため、彼女の発言がサイゴンでのクーデターへケネディが許可を出す遠因となったとされる。なお、1963年のクーデターで義兄であるゴ大統領と、夫であるゴ・ディン・ヌーは暗殺されたが、彼女は生き残り、国外へ逃亡する。その後、80歳を超えた今でも祖国への帰国はかなっていない。
その後も南ベトナムにおいては様々な人々によるガソリンの個人消費が相次ぎ、それに合わせるようにゴ・ディン・ジェム政権以降の南ベトナム政府を根底から揺さぶり続ける。
[編集] サンクチュアリの形成
統一の夢破れた1956年から戦争が本格化する1963年まで、北ベトナムが何もしないわけはなく、国力の増強と物資の備蓄、そして何よりも近隣国への秘密の外交を重ねることで、数カ国にわたる物資の輸送ルート「ホーチミン・ルート」を建設していった。一般的に、他国の領土を通過する輸送ルートの存在は国際法違反に当たるが、インドシナ半島におけるフランスとの戦争を一手に引き受けていたひげじじいは、各国の共産党と連携し、秘密裏、もしくは各国の政権から黙認してもらう形で、北ベトナムから南ベトナムへと向かう長い長い道を切り開いていくことに成功する。
1960年のベトコンの結成以降、このルートは戦争の帰結に徹底的に関わることになる。なぜなら、アメリカ軍は、その指令系統がホワイトハウスにつながる国家の軍隊であるため、ゲリラのベトコンが国境を超えると追ってこれない(超えた時点で国際法違反)というとてつもない弱点があった。しかも、ベトナムという国自体がいつでもどこでも国境のそばと思わざるをえない細長い形をしていた。
そのため、北ベトナムが国境の外に基地を作り、ベトコンを南ベトナムへわんさか送り続けても、アメリカにはどうすることもできなかった。しかし、戦争の終盤になってようやくアメリカも国境を侵犯してベトコンの基地を叩くことを選択する。国一つつぶして。そのため、200万人が犠牲になっている。
なお、まったく同じことが40年後に起こった米軍によるアフガニスタン侵攻においてアフガニスタンとパキスタンの国境で行われている。パキスタン側に拠点を置くタリバンが、アフガニスタンにおいて圧倒的な戦力を誇るアメリカ軍を徐々に追い詰めていく様子を、世界中が生暖かい目で見守っている。
[編集] その他大勢、政権を奪取
1963年11月に発生した軍事クーデターは、ケネディ大統領のゴーサインで行われた、きわめて無難な軍事クーデターであったが、残念なことに、アメリカ政府は腐った軍人の本質を理解していなかった。基本的に、無学で体力だけしかなく、戦場で生き残り続けるほどのしたたかさを備えた連中に、いったいどんな政治を託そうとしたのか、CIAの見解を知りたいものである。また、クーデター後は、基本的にゴ政権の過ちである仏教徒および土着宗教への弾圧政策はそれなりに影を潜めるが、結局、カトリック以外の各宗派による権力闘争が激化しただけの話でしかなく、それ以上に政権不安による一般市民のデモを頻発させる事態を招いた。
その後、ゴ政権を倒したズオン・バン・ミンを首魁とする軍事政権は、より一層のアメリカよりの政策を推し進めることで、リンドン・ジョンソン政権からは歓迎されたものの、ベトコンとの戦闘に力を入れなかったことが自軍内部に嫌われ、早々に退場を迫られることになる。なお、兵力を温存して金だけむしり取ろう消極的な考えが現実に即したものだったことがわかるのはずいぶんと後になる。1964年1月30日、今度はアメリカもびっくり、いったい誰やねんというグエン・カーン国軍総司令官(37歳)を中心とした勢力が再クーデターを起こす。しかし、いきなりトップのクビを挿げ替えるようなことはできず、彼と彼の取り巻き連中は1年以上にわたる政争の結果、最終的にズオン・バン・ミン大統領を隣国のタイへと追放することに成功するが、仏教徒を基盤とした政治経験のまったくない若手将校を中心とした反乱だったため、南ベトナムの政府はその後も迷走し続ける。
これ以降、南ベトナム政府のトップはその名称も含めて二転三転し、1965年6月のクーデターにより、グエン・バン・チューが国家主席に就任した段階でようやく沈静化する。
[編集] 面倒なのでベトナム共和国の政権トップの変遷
| 氏名 | 就任 | 辞任 | 所属 | 備考 | |
| 1 | ゴ・ディン・ジエム(この中で一番まとも) | 1955年10月26日 | 1963年11月2日 | 人民労働革命党 | 無し |
| 2 | ズオン・バン・ミン(まだまとも)、第1期 | 1963年11月2日 | 1964年1月30日 | 軍人 | 革命軍事委員会委員長 |
| 3 | グエン・カーン(アレ)、第1期 | 1964年1月30日 | 1964年2月8日 | 軍人 | 無し |
| 4 | ズオン・バン・ミン、第2期 | 1964年2月8日 | 1964年3月16日 | 軍人 | 無し |
| 5 | グエン・カーン、第2期 | 1964年3月16日 | 1964年8月27日 | 軍人 | 無し |
| 6 | 暫定指導委員会 | 1964年8月27日 | 1964年9月8日 | 軍人 | ズオン・バン・ミン、グエン・カーン、チャン・ティエン・キエムによる三頭体制 |
| 7 | ズオン・バン・ミン、第3期 | 1964年9月8日 | 1964年10月26日 | 軍人 | 暫定指導委員会委員長 |
| 8 | ファン・カク・スー(珍しくマトモ。でも軍の傀儡) | 1964年10月26日 | 1965年6月14日 | カオダイ教系無党派 | 国家評議会議長 |
| 9 | グエン・バン・チュー(悲惨) | 1965年6月14日 | 1975年4月21日 | 軍人;全国社会民主戦線(1968年-) | 大統領選挙:1967年、1971年 |
| 10 | チャン・バン・フォン(打つ手なし) | 1975年4月21日 | 1975年4月28日 | カトリック系無党派 | 代理 |
| 11 | ズオン・バン・ミン(ア・ワ・レ)、第4期 | 1975年4月28日 | 1975年4月30日 | 軍人;民族和解勢力 | 代理 |
以上のように、頻発した軍事クーデターと政権のたらい回し、何よりも大統領の資質のなさに幻滅した国内感情、そしてここぞとばかりに裏から手を回す北ベトナムの謀略により、ベトコンの勢力がそれはもう、とんでもないスピードで浸透していき、南ベトナムにおける実質的なベトコンの支配地域が国土の半分以上を占めるまでになる。しかし、アメリカと南ベトナムは情報戦、スパイ戦のなんたるかをまったく理解していないかのごとく、ベトナムのことはベトナムに任せた。その結果、無知でバカで政治的な経験が皆無だったことで国民から不人気だったグエン・カーンはフランスへ追放される。その後も1965年に空軍を後ろ盾に飛行機野郎グエン・カオ・キが首相になり、実質的トップに立つが、その後実は麻薬密売組織の首領で、若い軍人から大人気だったグエン・バン・チューがクーデターを決行し、国家元首に就任、グエン・カオ・キとの両頭体制を確立することでようやく沈静化する。その後、1967年9月の選挙で正式に大統領に就任し、ようやく南ベトナムが国らしい存在になる。もっとも、その間、2年にわたる抗争の中、まともな南ベトナム軍は都合13回におよぶクーデターに大忙しだったため、最前線でのドンパチはすべてアメ公が変わって引き受けることになる。
なお、この大混乱を作った張本人であるズオン・バン・ミンは1968年に追放されていたタイより帰国するが、さすがに麻薬組織の元締めを支持するほどバカではなく、北ベトナム及びベトコンに対しても強硬姿勢をとらない穏健派勢力として活動する。しかし、彼はそのことで最後の最後で大損ぶっこくのは歴史の皮肉だ。ベトナム戦争終結直前の1975年4月29日、ズオン・バン・ミンは、チューの後に大統領に就任していたチャン・バン・フォンから大統領職を譲られる。そして、11年ぶりに大統領に復帰した彼は4月30日にサイゴンに突入してきた北ベトナム軍に対して降伏する役目をあてがわれている。
なお、どうしてこんなにもクーデターが頻発しまくったかといえば、南ベトナムの政府高官が、軍事クーデターの阻止を名目に自軍の精鋭部隊の多くを前線からサイゴンに駐留させ、そいつらを使って次のクーデターを起こさせるという、戦争している国家とは考えられない権力闘争を繰り返したためである。その結果、アメリカがいくら軍事援助をしても前線の南ベトナム軍の戦闘力が強化されず、大統領の周辺のみ装備が強化されるという笑い話もつたわっている。
[編集] 東京湾事件
1963年11月のケネディ暗殺後、リンドン・ジョンソンがアメリカ合衆国大統領就任する。彼は、ケネディの志を引き継ぎ、内政面で偉大な足跡を残した。内政面では。しかし、外交面で彼はケネディがやめようやめようと腐心していたベトナムへの軍事介入を一転させ、推し進められるだけ推し進めていき、アメリカ軍を本格的に参入させることで共産主義を一掃しようともくろむ。そして、そのきっかけとなった事件が、1964年8月4日に起こったトンキン湾事件である(漢字で書くと東京湾)。実際、役立たずの南ベトナム軍だけではなく、自分たちも北ベトナムに対して宣戦布告したくてしたくてたまらなかったアメリカは、北ベトナム海軍の魚雷艇からアメリカ海軍の駆逐艦に攻撃を受けたことにし、真珠湾のときと同じように、相手からだまし討ちを食らって、それに対する反撃という名目で本格的にベトナム戦争へ参戦する。
最初の攻撃は8月2日に行われた。北ベトナムの領海内で。相手国の領海内でドンパチすること自体問題であるが、そこはそれ、双方大人の対応を見せ、アメリカ「今度やったらぶっ殺してやる」、北ベトナム「もう一回やったら天罰が下る」と、メッセージを交換しあうだけで終わった。しかし、8月4日、性懲りもなく再度北ベトナムの領海に進入してきたアメリカの駆逐艦「マドックス」は、夜中の11時に魚雷攻撃を受けた?いや、受けたんじゃないか?いや、でも、レーダーの記録に残ってませんよ?あっそう、でも一応上に報告しておこう・・・軍上層部「よくやった、これで正々堂々ぶっ殺す!」となり、国中が北ベトナムによるだまし討ちに対する怒りに燃えて、8月7日、上下院とも圧倒的な多数で北ベトナムへの攻撃に関する決議(トンキン湾決議)を承認し、これが事実上の宣戦布告となる。なお、北ベトナム領内だったことはなかったことにされた。そして、この決議に反対した強者が少数存在し、後にアメリカの良心として多大な尊敬を集める。上下院併せ506人の中で、たった2人だけだったが。なお、この段階では、アメリカが攻撃されたかどうかは確定されていなかったが、後に、様々な偽証により、実際に攻撃があったかのごとくに語られるようになる。しかし、その後にこのだまし討ちの代償がいかに大きかったかを思い知るのは、アメリカのほうだった。
ちなみに、アメリカ同時多発テロ事件の際の決議にも、大統領へ特別権限を与える法案にたった一人、バーバラ・リー下院議員が反対票を投じている。これは、アメリカの理性が40年間で半分になったことを意味している。
その後、1971年6月にニューヨーク・タイムズの記者が、政府の機密文書(一般的にペンタゴン・ペーパーズと言われる)を入手し、この事件はベトナム戦争への本格的介入を目論むアメリカが仕組んだ自作自演であったことがスクープされる。アメリカがだまし討ちをでっち上げて戦争を開始し、さらに、勝利に関する展望がまったく存在しないまま戦線を拡大していったことで、被害を多大なものにしたことが白日の下にさらされた。すなわち、ばれた。
なお、ベトナム戦争の場合は開戦から7年でアメリカの嘘が公になったが、イ