ガーダー・メイリン

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ガーダー・メイリン(Гаадаа мийрэн、嘎達梅林、1892年生-1931年4月5日没)とは、内モンゴルの馬賊である。

人物[編集]

内蒙古ジェリム盟ホルチン左翼中旗(現在の通遼市)に住んでいたモンゴル族ムルトゥド氏の出身で、短気で傲慢な性格からイェーシとあだ名されていた。ガーダーとは南モンゴルの方言で「末っ子」という意味であり、すなわち「すべてを継承する者」⇒「すべては俺のもの」を体現すると言われている。また、メイリンとは官職名で旗(行政区画)の守備隊長である。すなわちガーダー・メイリンとは「すべてを我が手にする親分」と言う意味を込めて名乗ったものであった。ちなみに本名であるナドミドは「控えめで慎ましく、行い正しい者」という意味であったのだが、まったく皮肉と言うほかなかった。

入営[編集]

1910年ごろ、特にやることもなかったために軍隊に入営(賃金が高かったのと、女の子にモテるというのが主な動機であった)したものの、集団生活に馴染めなかったためすぐ嫌になってしまい、同僚と喧嘩した挙げ句に脱走したものの、やはり娑婆には仕事も食い扶持もなかったために再び入営、素知らぬ顔で軍隊を出たり入ったりを繰り返していた。この頃の中央政府(王朝)はまさに腐敗を極めており、地方や辺境へ行けば行くほどその管理(人員・物資・運営もろもろ)も杜撰なものとなっていたために、そんな荒業もたやすく出来たのであった。ひどい者になると、上官を殺して脱走したその一週間後に原隊に舞い戻り、別人として過ごしていた例もあるとかないとか。そんなこんなで10年ほど軍隊で(断片的にであるが)勤め上げた1920年ごろ「他に武勇にすぐれた者もいなかった」というきわめて消極的な理由でメイリン職に任命されたのであった。これは科挙によって選抜され、中央から派遣されてきたいわゆる「キャリア・インテリ組」を別とすれば破格の待遇であり、地元出身の人間としてはそれ以上の昇任もない、まさに「兵隊元帥」なのであった。

結婚[編集]

生涯の伴侶であり、戦友でも会ったむったん♪ムータン(牡丹)との馴れ初めははっきりしないが、1920年代に近隣を蹂躙していた「飛天夜叉」という馬賊の女頭目を、ナドミドが逮捕した記録が残っており、その処刑報告が上がっていない(国家反逆罪は問答無用で死刑である)ことから、ナドミドが助命と引き換えに結婚を迫ったという説がある。かくして出会ってしまった無法者夫婦は、いっそう元気よく近隣の不逞住民に八つ当たり(何かと夫婦喧嘩が絶えなかったようである)、もとい取締りに励んだのであった。

蜂起[編集]

その後、1928年11月に清王朝の施行する「蒙地開墾政策」に反対、夫婦は部下や私兵を率いて「漢族優遇政策をやめろ!」「南モンゴルはモンゴル族のものだ!」「漢族はモンゴルから出て行け!」をスローガンに武装蜂起して抵抗運動を展開。大いに奮戦した結果、緒戦を勝利に導くことに成功したものの、生来の傲慢さによって部下を虐待したり、住民から搾取するなど好き放題やらかしていたため、一度は部下の裏切りによって中華民国東北軍に売り渡され、瀋陽(満州)の監獄にぶち込まれてしまう(1931年3月)。しかし、危うく難を逃れたムータンの軍勢によって脱獄に成功、どうにか逃げおおせたものの、もはや彼らは民衆の支持を得られないまま野垂れ死んだとも暗殺されたとも言われている。享年38歳。ムータンは永遠の17歳+20歳だった。

民謡[編集]

そんなどうしようもないガーダー・メイリンの生涯であったが、大義名分とは言えモンゴル人のために戦った英雄の一人として祭り上げられ、民謡となって現代に伝わっている。

要説起義的嘎達梅林、為了蒙古人的土地 (ガーダー・メイリンは起ち上がった。何はともあれ同胞のために)。」
ガーダー・メイリン について、民謡

ちなみにこの歌は中国で放送禁止処分とされているため、うかつに口ずさんではならない。

関連項目[編集]